『介護と恋愛』ドラマ化によせて

遙 洋子

 何のために本を書くのか、という問いに、ひとつの答えをくれたのが『介護と恋愛』の執筆だった。その前に書いた『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』では、ゼミ仲間になんのために本を書くのかを執拗に聞いて回った記憶がある。それが明確ではないと、方向を見誤り沈没しそうな恐怖感があった。当時の友人の答えは「批判するため」だった。すでに多くの出版物で何かが語られている。それに批判を積み重ねていく作業が執筆だというのだ。「ふーん、そんなもんか」と腑に落ちないまま、「じゃ、『赤毛のアン』はなんの批判なんだ?」という問いは飲み込み、当時の私は書き続けた。

『介護と恋愛』はそれまでの執筆動機とはまったく異なる。なんだか分からないけど書き始める、というのが正直なところか。それは私の父が他界するまでの数年間を描いた。ちょうど三〇歳前後の頃だった。仕事上のキャリアを積む機会が増える年であり、恋愛もまた結婚へと形を変える過渡期でもあり、そんな時に親の介護が始まった。当時は日々を忙しく駆け巡るだけだったが、いったい自分の身になにが起きているのかワケが分からないまま爆走していた。介護は、その対象を見送りさえすれば解放され、いったんは終止符を打つ。それまで何を苦しんだかは混沌としたまま、そのことにはしっかり目をつぶり、目前の自由にのみ心を奪われて歳月を過ごすのだ。  

しかし、何年経っても、アレがいったいなんだったのか、答えが出たわけではなかった。明確なのは、父は死に、結婚も流れ、そして仕事だけが私の手元に残ったことだった。介護+結婚+仕事=仕事、となることに納得できないまま、なんか騙されたような気分だった。分からないままに書き始めようと思ったのは、父を見送ってから数年後のことだ。  

そして、私にとって、なんのために本を書くのかが見えた。  過去の出来事を、自分の言葉で納得するためだった。納得して初めて過去を受け入れられる。壮絶な人生経験をしたからといって、豊饒な熟成された人生観があるとも限らない。  

結婚を五回しても、結婚を語れない人だっている。だから五回も繰り返すのだとも言えるが、自分の身に起きたことは、しっかり形に残す意味がある。それは、そうすることで初めて、体験が自分のものになるからだ。  

では、ドラマはなんのために書くのか。今回はこの本のドラマ化にあたり、私自身が脚本を手がけさせてもらった。初めての経験なので不安がなかったとは言えないが、誰か第三者に脚本をお願いするよりは、下手でも自分で手がけたほうが「私が納得がいく」からだ。とはいえ、私にとって脚本執筆は高校の演劇部以来だった。編集者からもらった『あなたも書けるシナリオ術』(筑摩書房)を片手に、ワケもわからず書き始めた。  

単行本執筆が、伝えたい言葉を丁寧に背景から構築していく作業だとすると、脚本執筆は、いかに言葉を無くすか、という作業だった。そもそも三〇〇枚の原稿が三〇枚になるのだ。一切の背景はそぎ落とし、短い台詞だけで多くを語らせる。役者の力量に期待せねば成立しえない分野だった。脚本を書いて思ったことは、役者は脚本以上のことを語ってくれもするが、力量次第では台詞を喋っていてもなにも語れないこともある、ということだ。そこに総合芸術の醍醐味があるのかもしれない。単行本からあらゆる情感を取り去り、台詞だけにするのは、作品をフリーズドライにするような感覚だった。だが、本読みの時に役者の肉声と肉体を借り、フリーズドライが見る見る水を含み情感豊かな美味しい食材に変貌するのを目の当たりにもした。  

文庫化に当たっては、上野千鶴子さんが解説を書いてくださった。私がようやく受容できた経験を、上野さんは社会学者の目線からさらにどう意味づけてくれるのか。私個人にとってもスリリングに興味深い。『介護と恋愛』は単行本・ドラマ・文庫化の流れのなかで、何度も読み直しがされている。それは私一個人の経験が、大勢の人に共有される時代を物語るものだと私は理解している。

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介護と恋愛

介護と恋愛

遙 洋子 著

定価651円(税込)