「たとえ話」と現実

加藤 隆

 この夏は「韓流ドラマ」にハマってしまった。一つのドラマが二十話・四十話といった長いものだから、まだ幾つかしか見ていない。その範囲であえていうならば、私のおススメは『バリでの出来事』である。ソ・ジソブという俳優は、他のドラマでのようにチンピラめいた役でなく、『バリでの出来事』でのように寡黙で秘めたものを目で表現するような役を演じた方が彼の高い価値を素晴らしく表現できる、といった類の感想を述べられるくらいにはなった。

「韓流ドラマ」のいいところは、「分かり易い」「感動し易い」ということだろう。「分かり易い」のは、私たちの親しんでいる現実からの類推が容易で、ドラマの世界の様子がすぐにそれなりに了解できるからである。「感動し易い」のは、現実の平板な毎日で私たちが望んだり恐れたりする展開が、ドラマの中でうまく演じられているからである。

 金持ちで能力も優れている、金持ちだが能力は月並み、貧しい家に生まれたが能力は優れている、貧しい家に生まれて能力も月並み。こうした露骨な設定のどれかに主要な登場人物たちが属していて、そこに愛や嫉妬のテーマが絡んでくる。登場人物たちは、一時的にあるいは長期的に成功したり失敗したりしながら日々を過ごしている。財閥の御曹司の恋人になりかけてそれが実現しなかったり、企業の捨石(かませ犬)に使われそうになった社員が、計略を実現させて企業を土台からひっくり返したりする。さまざまな力が、巨大に見えたり、色褪せたりする。非現実的であるようで、きわめて現実感がある。ため息と涙を誘う場面の連続で、物語に没入する。

 私の第一の専門である聖書もつまるところ物語である。長い間この聖書に親しんでいると、私の生活の大きな部分が聖書の物語の追体験で埋められているという状態になってくる。二十世紀から二十一世紀にかけて日本やフランスで過ごした日々も現実だが、聖書の物語の世界も私の人生の中で大きな現実である。現実ではないというのが物語の基本的な設定かもしれないが、物語の世界にこれだけ大きく関わってくると、物語の世界が私の人生の実質的な部分ではないなどということは受け入れられない。とすると次のようなことが考えられるのではないか。

 韓流ドラマを見て、今は貧しい生活をしているが、実は財閥の会長の孫であるという状況を四十話(見るのに数日はかかる)にわたって体験する。こうしたドラマを見て、夢のような世界を数日間にわたって生活することができたとしても、たしかに私が実人生において貧相な生活をしていることに変わりはない。しかし数日間の私の生活の大部分は、財閥の会長の孫としての生活だったのである。やはり得をした気分である。

 聖書の物語の場合はどうだろうか。全体としては「神と付き合う」のだし、場合によっては「神の子」になったりするのだから、なかなか稀有な体験だと言えるだろう。

 従来からの紙メディアの書物にDVDやインターネットが加わって、今や質のよい物語に埋没できる状況が到来している。

 しかし古代において普通の人々が物語に接する機会は、きわめて限定されていた。たとえばイエスが相手にした一般の人々は、限られた機会に口頭の物語を聞くくらいである。そこでイエスは「たとえ話」を多用した。「営々と種をまいても収穫が得られない、しかし最後に法外な量の収穫が実現した」といった短い話である。神の介入で実現する「素晴らしい別世界」を体験させてくれる最小の手段が「たとえ話」である。ところがマルコをはじめとする福音書記者たちは、「素晴らしい別世界」を条件付きでしか味わうことができないように、「イエスのたとえ話」の意味の方向をずらせてしまう。「良い土地、良い環境」が必要だとか、「掟を守らねばならない」といった類である。ヨハネにいたっては、「たとえ話」を排除して、神の自由な介入を未然に封じるような言葉をイエスにたくさん語らせている。

「たとえ話」「物語」を抑えるこうした操作は、つい最近まで連綿と大規模に続けられてきた。しかし二十一世紀の物語の大波は押し返せないのではないだろうか。

(かとう・たかし 神学者)

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『新約聖書』の「たとえ」を解く

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