生きてきた時間 
──高井有─『夢か現か』

岡松和夫

 二〇〇六年七月まで「ちくま」に三十六回にわたって連載されたエッセイがほとんどで、それに吉村昭氏追悼の文章が加わっている。
 私は毎月「ちくま」を開くたびに、初めのうちは驚いていた。毎回話題は違うのに、文章の後半になると、アメリカのイラク侵攻に度たび筆が及んだ。そういうことが続いた後、ようやく著者が戦争のことを意識して書こうとしているのに私は気づいた。一回目の文章「記憶と身体」について言えば、夏の暑さについての身辺的な描写の後、不意に「イラクに対する米軍の武力行使が終結して、早や三ケ月余りが経つた。今後はイラク復興に世界中の国が一致協力して臨むのださうだ。グロテスクな喜劇を見せられてゐるやうな気がする。」と始まる。そして、東京空襲や戦災の記憶が語られる。
 考えてみれば、著者や私の世代は少年期を第二次世界大戦のなかで過しただけでなく、その後も世界の何処かで戦争が絶えないことを意識させられてきたのである。エッセイをどう書こうと、戦争につながってゆく場合が多いのだ。
「わが郷里」という章がある。著者の郷里は秋田県角館町と言ってよいのだろう。しかし、戦争がなかったら著者の東京暮しが続いたはずである。画家だった父親が一九四三年に病死し、転居した家が空襲で焼け、著者と母親は身寄りを頼って父親の郷里である角館に移住する。しかし、一九四五年十一月には、生活の方途を見失った母親が自殺する。
 筆者は東京に戻って親戚に助けられるが、それから二十年一度の法事の時を除いて角館には帰らないままだった。
 後に母親の死を書いた『北の河』が芥川賞を受賞した後、ゆるゆると心の氷も溶けたのか角館の人たちとの交流が始まる。
     *     *     *
 著者と私は三十代の半ば頃「犀」という同人誌で一緒だった。昭和三十九年から始めた雑誌である。同人のなかには立原正秋もいた。このエッセイ集では「あの年の夏」の章に出てくる。韓国に生まれながら、日本人を妻とし、国籍も日本を選んだ。殆どの教育を日本で受けたのだから、私などはそれを自然なことと思っている。著者も立原への親近感が深い。評伝『立原正秋』を書いて好評だったが、一部の人たちは首をかしげた。それについて著者は「私は、私にとつての立原正秋をしか語ろうとはしなかつたのだから」と強い調子で述べている。肉親との縁も薄いなかで戦争の時期をくぐり抜けてきたところなど、通じ合うものがあると私は感じている。
 立原正秋は著者の高井より六つほど年長だろうか。立原にも戦争体験はない。その上の世代でこのエッセイ集に姿を見せるのは古山高麗雄氏である。著者は「戦争の寝棺」の章で、古山さんが亡くなって三回忌に当る日に開かれた偲ぶ会のことを書いている。また、『龍陵会戦』『断作戦』『フーコン戦記』などの古山さんの戦争ものに注目している。体力のない古山さんは部隊の移動の時一番遅れてしまう。ようやく着いたところでは蛸壺を掘らなくてはならないのだが、“寝棺型”の浅い溝のようなものしか作れない。「そこに横たわっていると、雨が降り、泥水が流れ込んできた。寝棺が浴槽になった。」古山さんはそのなかで眠ることもあったのである。
 勿論、このエッセイ集は戦争に関連する話題で埋めつくされているわけではない。寄席好きの著者が十代目桂文治を中心に芸人のことを書いた章(「名残りの藝」)もある。また、海好きの著者が今暮している葉山町の風景や行事を楽しげに書いた部分は心地よい。著者は青年期の二十年を通信社の文化方面の記者として過したから、会った人たちについて興味深く記している章もある。
 それでもやはり、著者の生きてきた時間が戦争について多くを語らせたのである。

(おかまつ・かずお 作家)

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水辺にて

夢か現か

高井 有一 著

定価1,680円(税込)