英語学習の不思議

鳥飼玖美子

 日本の英語学習というのは、つくづく摩訶不思議なものだと思う。単なる一外国語であり、一教科であるに過ぎないのに、日本人は英語ができないと誰もが異口同音に嘆き、何とかしなければならないと国をあげて騒いでいる。それでいて、海外の出版物は直ちに和訳され、映画は日本語字幕、テレビで流れるニュースやドラマの音声は日本語に吹き替えられる。センター入試で、使い捨て機器に莫大なお金を使って試験するほど、リスニングは大事だと主張しながら、英語が日本語に吹き替えられることに文句が出ることはない。
 つまり、日本に住んでいる限り日本語で暮らせるのだから(そしてそれは幸せなことなのである)、英語が出来なければ生きていかれないような悲壮感を持つ必要はないのだが、「グローバル社会では英語は国際語」という言説に魔法をかけられたが如く、これからは英語ができないと一人前の人間ではないとの危機感は強い。
 しかし、本物の英語コミュニケーション力を身につけるには、こういうことをした方が良いという学習方略は、体験記や参考書や雑誌などで紹介されているものの、実際にそれを試みる人は少ない。なぜなら、アドバイスとして登場するのは努力を要することが多く、英語をやりたいと言う人の大半は、努力しないで済む方法を模索しているからである。
 斎藤兆史氏は、長崎通詞や明治の近代化を成し遂げた英語の達人たちの英語学習方略を研究し、一般に提供してきたが、一方でラクに英語をしゃべれるようになりたいという流れはますます強くなっている。公立小学校での英語必修化に賛成している親は七〇%にのぼり、その多くは、小さい頃から楽しくやれば英語は自然に身につき話せるようになる、という幻想を信じ込んでいる。
 そのような状況に業を煮やした(推測だが)斎藤氏は、今度は、正面きって「正しい英語の学習法」を提案した。中身のあることをきちんと伝えられるような英語力を可能にするには、「堅固な基礎力というものがどうしても必要」であり、そのために「地道な学習をすることで、語学の『大道』を歩いていただきたい」と冒頭で宣言している。そして、予習から授業、自習へと段階を追って学習法を提示し、発展学習でまとめている。
 予習編では、「ぜったいにそこに踏み込んではいけないというような小径」の危険性を指摘し(例えば、「それが頂上への近道であるかのような誘い文句を刻んだ標識」)、語学の正道を踏み外すことのないよう、心構えを説く。人間国宝である能役者によれば、能の稽古は「型」から入り、正しい型が身についてから、自分なりの解釈での創意工夫が可能になるという。それと同じことを著者は随所で語り、「最初からいい加減な稽古を続けていたのでは、たいした上達は望めません」と警告する。
 授業編では、近年、肩身の狭い文法を取り上げ、なぜ文法事項の学習が必要なのか懇切丁寧に説明。次に、語彙力を「語学力のなかで一番大事なもの」と例示し、読解力へと進む。
 自習編では、音読、素読、筆写、精読、多読、暗誦などを勧めており、これは同時通訳のパイオニアの学習法を想起させる。例えば、國弘正雄(くにひろまさお)氏は四書五経など漢籍の素読から音読という学習法に到達し、村松増美(むらまつまさみ)氏は中学時代にシェークスピアを教材に『マクベス』などを暗誦しており、英文の筆写もよくしていた。特筆すべきは、同時通訳の草分けとなった人々が、若き日に相当量の英文、それも文学作品を読んでいたことである。斎藤氏が提示している「大道」は確かに「正しい学習法」であり、地道な努力こそが頂上への「大道」であることの証左といえよう。
 最後に、本書が単なる学習法で終わらず、英語の歴史から現在の位置づけまで論述し、World Englishes(世界英語)という思想が内包する危うさを指摘していることに、敬意を表したい。英語学習という木ばかりに夢中になり、その英語を取り巻く森を見失うことが多い昨今、読者には、この発展学習まで、通して熟読していただきたいと願う。

(とりかい・くみこ 立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科教授)

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これが正しい!英語学習法

斎藤 兆史 著

定価735円(税込)