『トリックスター群像——中国古典小説の世界』あれこれ

井波律子

 一九七〇年代、ポール・ラディンの『トリックスター』をはじめ、種々のトリックスター論や道化論が翻訳され、日本でも『道化的世界』を嚆矢とし、山口昌男氏のトリックスター関連の著作が続々と刊行された。民俗学の分野に属する作品が多かったが、いずれも刊行されるたびにとても面白く読んだ。それから約十年後、私は『三国志演義』について小さな本を書き、さらに九〇年代末から『演義』の全訳にとりかかり、数年かけてようやく完成にこぎつけた。こうして『演義』と徹底的につきあううち、かつて夢中になったトリックスター論がしばしば頭をよぎり、トリックスター的役割をになう登場人物にスポットをあてつつ、中国白話長篇小説の流れをたどってみたいと思うようになった。
 それにつけても、『演義』はさておき、残る四篇の白話長篇小説すなわち『西遊記』『水滸伝』『金瓶梅』『紅楼夢』をまとめて原文で通読しなければどうにもならない。むろんこれまで、あるいは気の向くまま、あるいは必要に迫られて、この四篇もおりおりに読んではいた。しかし、なにぶん記憶力の衰えもはげしくなった今日このごろ、これでははなはだ心もとない。そこで一念発起しノートをとりながら、四篇の通読にとりかかった。
 覚悟はしていたものの、これは予想以上にオオゴトであった。なにしろ、『西遊記』が百回、『水滸伝』が百回(百二十回本もあるが、原型に近い百回本を用いた)、『金瓶梅』が百回、『紅楼夢』は続作四十回を合わせると百二十回で、つごう四百二十回にもなる。一回一回そうとうな長さだから、毎日、必死で読まなければ何年かかるかわからない。かくして約一年読んで読んで、ようやく四篇とも読了することができた。このときのノートをもとにした『トリックスター群像——中国古典小説の世界』が完成したとき、旧知の中国哲学者は「五大白話長篇小説を読了するのは、中国哲学の分野では十三経注疏(じゆうさんぎようちゆうそ)を読破しようとするようなものだ」と言った。これは関西弁でいう「ようヤル」の意味だし、「十三経注疏」とは比ぶべくもないけれども、なかなか大変だったのは事実であり、読みおえ本を書きおわったあと、しばらく目の焦点があわず、困ってしまった(眼鏡をかえ、今はよくなった)。
 まとめて読んで面白かったのは、五大白話長篇小説の文体がそれぞれ歴然と異なることである。『演義』はことに地の文のスタイルが平明な文言と言えるほど整然としており、たいへん読みやすい。これに対し、『水滸伝』には講釈師の語り口が濃厚に残されている反面、白話としては彫琢されるに至っておらず、文法的に追跡しきれない箇所が多々あって、きわめて読みにくく難しい。『金瓶梅』は書かれたものとしての最初の白話長篇小説なのだが、これまた方言もまじるなど、全般的にいたって難解で読みにくい。『紅楼夢』になると、白話のスタイルが高度な完成の域に達しており、まことに精緻な文章なのだが、これは表現内容が繊細にして複雑、別種の難しさがある。意外に読みやすかったのは『西遊記』である。奇想天外な物語展開とはうらはらに、文章表現が整然としており、明代中期、白話長篇小説として集大成されたときに、そうとう手が加えられたとおぼしい。
 というふうに異なる語り口で展開される五大白話長篇小説において、物語世界を攪乱し揺り動かす存在としてのトリックスターが、どのような役割を果たしているかを探ってゆくうち、それぞれの物語の構造が意外なほど鮮明に見えてきたのはうれしい発見であった。また五大白話長篇小説の「トリックスター群像」をたどりながら、語り物を集大成した『三国志演義』『西遊記』『水滸伝』から、単独の作者によって書かれた『金瓶梅』さらには『紅楼夢』へと転換していった中国小説史の流れを、「現物」に即して確認しえたのも貴重な体験であった。こうした発見や体験が拙著に反映されていればと願うばかりだ。

(いなみ・りつこ 中国文学)

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トリックスター群像 ─中国古典小説の世界

井波 律子 著

定価2,310円(税込)