一筋の足あと

池内 紀

 全国に数ある大学や研究所のなかで、京都精華大学文字文明研究所はとびきりユニークな一つである。まず住所が風変わりだ。京都市左京区比叡山一本杉。たしかに比叡のお山の山頂ちかくにあって、以前は杉の古木が一本、ていていとそびえていたのではなかろうか。
 建物がまた変わっている。玄関を入るとガラス張りの広いフロアー。一方にのびた研究棟は崖上にあり見晴らしがいい。もう一方の建物は大広間をもち、小さな舞台をそなえ、左右の袖にはハデハデのビロードの幕。「京の夜景を一望に!」そんなキャッチフレーズで知られる山上のホテルとそっくりである。
 そして実際、元ホテルだった。建物をそっくり大学が買い取って研究所にした。つい先年まで研究棟の個室には、風呂上がりの浴衣姿がくつろいでいた。大広間は宴会場で、舞台の袖のうしろにカラオケ装置があり、マイクを握ったおとうさんが浴衣の胸をはだけて熱唱していた。
 石川九楊『漢字がつくった東アジア』の生まれたところである。いたって幸せな誕生の地をもったといわなくてはならない。研究所のフロアーからは「京の夜景」はもとより、天気のいい日は大阪キタのビル群や大阪湾、淡路島を見はるかすことができる。そのかなたには九州、沖縄、さらに海波をこえて「東アジア」とよばれる大陸の半島が控えている。漢字文明圏をめぐる連続講義が行われた元宴会場は、広大な知的空間を収束させるための扇の要というものだ。
 石川九楊には『書の宇宙』二十四冊の編集がある。中国から東アジアに及ぶ膨大な書き文字のコレクションだ。『中国書史』『日本書史』の大著二巻がある。中国またわが国の書体の歴史を丹念にあとづけた。『一日一書』三巻がある。一日に一つの字をとりあげ、漢字を語りつつ現代の社会と暮らしをユーモラスにまないたにのせ、あるいは辛辣に切り裂いた。
『漢字がつくった東アジア』は二十年に及ぶ文字文化の研究と考察が、発展的延長として導き出した成果である。目次をたどるだけでも、その規模の雄大さがわかるだろう。「漢字文明圏とは何か」「文字と国家の誕生」「分節時代から再統一へ」「深化から解放へ」。以上四章は序章につづく中国史三回を収めたもの。つづいて朝鮮史、渤海史、越南史、琉球史、アイヌ史——。
 序章に使われている「漢字文明圏」が連続講義のキーワードというものだ。漢字文化を研究してきた人が、より広い文明的視野のもとに東アジアの歴史像を考えた。地理的にも民族的にもとらえきれず、解明しきれないもの。たしかに東アジア圏の根っこにあって、ひそかな共通性を示しているもの。
「東アジアというのは地理的な概念ではなく、『漢字文明圏』つまり『有文字・無宗教の歴史的、地理的、文化的地帯である』と私は定義したいと思います……」
 おそろしく眺望のいい建物における講義は、理解して記憶してもらう以上に、たぶんにポレミックの性質におびていた。論争をしかける。批判やあげ足とりを誘いかける。批判したり反論しようとすれば、おのずと自分の頭で考える必要が出てくる。知的訓練に参加しなくてはならない。石川九楊は果敢に挑発を買って出る。そこにはつねに、この人にみなぎっている青年のように若々しい精神がうかがわれる。
「ヤポネシアの空間」と題された章に、対馬の亀ト、また沖縄の結縄をめぐり、「東アジア的な、大陸文明的な関連」が指摘されている。
「言葉や文化ももともと『ある』わけではありません。歴史のある時点である事情によって『できる』ものです」
 若々しい精神はたえず動きのなかで考える、そして「できる」過程を漢字という信頼のおける証拠物件で追い求めつつ、なおそこからハミ出したところをあとづけていく。沖縄やアイヌを考える手がかりが、このような関連性で提出されたのは、これまでついぞなかったのではあるまいか。
 先年のことだが文字文明研究所事務方のやさしい女性が、「山の雪だより」をくださった。山上に小雪が舞った翌朝、南側のピロティの屋根は白一色。写真には虚空に突き出た白面がひろがっていた。たしか研究所所長石川九楊室はその下だったと思うが、遠く東アジアへ向いたピロティに、いまやくっきりと一筋の足あとがのびている。

(いけうち・おさむ ドイツ文学者・エッセイスト)

前のページへ戻る

漢字がつくった東アジア

石川 九楊 著

定価2,310円(税込)