『日本の百年』の新しさ

筒井清忠

 シリーズ『日本の百年』が初めて刊行されたのは、私が中学生から高校生の頃であった(一九六一—六四年)。若い多感な時代に刺激を受けた書物の影響は生涯にわたって残ると言われるが、私にとっては本シリーズはまさしくそういう書物であった。
 当時、少年の私の心に常日頃から存在していた違和感は、親達から聞く明治・大正・昭和という時代についての生々しい体験談と、学校の歴史の教科書や現代史についての書物の叙述との間にある甚しい落差にあった。
 今考えてみると、当時のそうした書物には政治・経済のことばかりが書かれていた、ということになるが、おそらくジャンルの問題に留まらず、人間観・歴史観の大きな欠落がそこにはあったのではないかと思われる。
 しかし、そのことに逸早く気づいていた少数の人々により、「日本人みんなが登場する生きた現代史」(初版当時のコピー)としての本シリーズが刊行されはじめたのである(それまでの「現代史」は「日本人みんなが登場」しなかったわけである)。一冊一冊を食い入るように読み進めた私は、初めてあの「落差」が埋まった思いを、渇を癒された思いを抱くことができたのだった。
 少年の日に知った「真実」はおそろしく強い。後年、私はことあるごとに本シリーズで知ったエピソードを思い出すことになる。
 幕末維新期のふつうの武士の転向の物語(松山守善)、沈没事故を起こした潜水艇の責任感の強い立派な艇長の幽霊譚、「叛逆者」としての四つ葉のクローバーを捜して自殺した大正期の高等女学校生、「おい食われるなヨ」が合言葉となった太平洋戦争の最前線、等々。挙げ出したらキリがないという感じである。これが本当の人間の歴史だ。こういう「おもしろい」ことをやりたいと思って大学に入ったのだが、アナール学派の影響によって社会史の重要性などということが言い出されるのは数十年たってからなのであった。
 さて、私にとってとりわけ印象深かったのは、第七巻『アジア解放の夢』であった。これは、それまで知らされていたのとは全く違った昭和史であった。とくに驚いたのは、大正から昭和初期にかけての職業軍人の社会的地位についての叙述であった。
 著者の橋川文三の引用する大正中期に出た書物では、明治と大正の軍人気質の相違を次のように叙述している(要旨)。
 明治——国家・軍隊という観念に支配されており、習慣が尊重された。理屈屋は排斥され、生活や将来への不安など考えなかった。
 大正——個人から出発し、人類社会的に考える。すぐに旧慣を打破しようとし、理屈を好む。目前の生活に苦しみ将来の不安に悩む。
 一九二八(昭和三)年に、日本陸軍の最高学府陸軍大学校で軍制学の講義中、教官の梅津美治郎大佐が「陸軍大臣は文官がよいか武官がよいか」と聞きはじめたところ、十人目で文官八対武官二となったので、慌てて以後の質問をやめ、質問をした事実も取り消すことにしたということも紹介されている。
 また、その頃陸大教官だった石原莞爾少佐の依頼でできた学生向けの『国体に対する疑惑』という書物には、次のような項目が含まれていたという。
「天皇陛下の御真影に敬礼するは要するに偶像崇拝にあらずや」「天皇を神とするは独断的にしてむしろ自然人と解すべきが合理的にはあらずや」「三種神器は原始民族の遺物にして今日これを崇拝するは時代錯誤にあらずや」「世界における君主国は漸次【ぜんじ】地上より消滅しつつあり、これに対して万世一系天壌無窮論はいかなる現実性を保証するのか」
 橋川は、軍人を取り巻くこうした深刻な「現代的」時代状況の中から、「軍人ヌーベル・バーグ」としての昭和の革新軍人達が登場したことを跡づけている。
 昭和の革新軍人達は、明治の国体論への疑念と断絶の中から生まれてきたというわけである。
 このことは私の昭和超国家主義研究の原点ともいうべき認識となったのだが、この認識は今日でも広く知られているとはいえないのではなかろうか。その意味では(この一事をとってみても)本シリーズは今日でもなお新しいことが理解されるのである。

(つつい・きよただ 日本文化論/歴史社会学)

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日本の百年1 御一新の嵐

鶴見 俊輔 著

定価1,575円(税込)