こわい本が残された。

最相葉月

 実家の書棚に、吉行淳之介の文庫が並んでいた。母の愛読書だった。随筆『女のかたち』の米倉斉加年による艶めかしい表紙絵(半裸の女)や、文庫カバーのあらすじだけでも、十代の私には刺激が強すぎた(「オリーブオイルを滴らせた股間の交接」とか「見知らぬ女がやすやすと体を開く」などとある)。生唾を呑みながらページを繰ると、娼婦の前でうろうろフラフラする男の話である。心より肉体によりどころを求めながら、心が動かされてとまどい、警戒する、そしてまた動かされる。本当はそういう話ではなかったのかもしれないが、当時の私にはそう思えた。「吉行淳之介って、よほどまじめな女に囲まれて育ったのよ」。母はそう決めつけていた。
 学校で「ねむの木の詩がきこえる」が上映されたころ、吉行淳之介が修羅の人であることを知った。作家の意図に反するが、『闇のなかの祝祭』を私は作家の私生活と切り離して読むことはできなかった。以来わが家の無責任な読者二名は、吉行淳之介を「フラフラ」小説家と呼んだ。編集者や銀座のママたちのいう、気遣いの人、いやなところがひとつもない人、ダンディ、といった吉行評を知るのはずいぶんあとのことである。
 このたび文庫化された『懐かしい人たち』は、故人となった作家たちとの交遊を回想した随筆集である。舟橋聖一主宰の雑誌「風景」を支えた日々、立原正秋から贈られた干物の味が悪かったこと、胃下垂のために自転車のチューブで胃を持ち上げていた島尾敏雄と赤線、若くして筆を折って株式売買人となり、三十四歳で急逝した父、エイスケへの思慕の情。文学的な評価が不安定な作家の息子という自意識と、人との間に保たれたそこはかとない距離。決めつけたり、断罪したり、訣別したりすることはない。吉行曰く「淡いつき合い」ゆえに生じ得たのだろうエピソードのなかに、作家の人柄や吉行の思考の輪郭がくっきり浮き上がる場面がいくつもある。
「佐藤春夫との二つの場合」という随筆がある。吉行が家を出たあと、吉行の妻(吉行は「配偶者」と記す)は佐藤春夫の家にたびたび駆け込み訴えをしていた。佐藤夫人の千代子は吉行がやってくると叱責するが、佐藤は知らぬふり。千代子が座を立ったすきに、「先生はズルイや、ズルイや」とくだを巻くと、「達人とは、ずるいものじゃ」と重々しく答える。この一言でいつもの逃げ腰がなくなった吉行は、そのまま二時間ほど談笑し、さてそろそろ帰ろうかと立ち上がった。するとそのとき、いつもの語調で佐藤曰く、「半達人のまま、帰るのか」。
 色街を題材に私小説を極めた川崎長太郎の、親子ほど年の離れた若きベストセラー作家吉行淳之介への複雑な感情を、湯本の旅館で対談した日から描き出す「川崎長太郎さんのこと」もぞっとして、いい。この日、川崎はだんだん戦闘的になり、永井荷風の女性の書き方をきれいごとと批判したあと、「吉行先生なんかの場合は、しばしば荷風タイプというふうなことになるかな」と矢を放った。とげとげしい雰囲気にしたくない吉行は「批判しているわけね(笑)」と穏やかに応じる。いじめたい川崎に、あくまでも(笑)で返す。吉行の(笑)は、大先輩に感情をむき出しにさせたくないと願うあまりの気遣いの楯のようである。(笑)のある対談でありながら、これほど笑わない(笑)を私は知らない。だが、やはり吉行淳之介は文の人だ。部屋をあとにする川崎の後ろ姿をとらえた描写に、ナイフを見た気がした。
 いや、はじめからナイフはところどころで顔を出す。フラフラしていたかと思うと、スーッと入る。え、と思うほど一瞬なので、刺したと思わない人もいるかもしれない。本人にはいえなかったくせに、「向田邦子は、男女の機微にやや疎い」なんて書いているのは序の口だろう。
『母・あぐりの淳への手紙』によれば、晩年、虎の門病院に入院中の吉行を母が見舞った日、吉行はベッドの上で出版されたばかりの『懐かしい人たち』を抱え、よい本が出来たと嬉しそうだったという。平成六年四月、吉行淳之介、生前最後の単行本として本書は刊行された。こわい本が残された。

(さいしょう・はづき ノンフィクションライター)

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懐かしい人たち

吉行 淳之介 著

定価777円(税込)