名医が語る心の生と死、そして再生

吉田利子

 お尻をおむつでふくらませた幼児がよちよち歩く。歩いては、すとんと転ぶ。転んでは、また前のめりに危なっかしく歩き出し、また転ぶ。
 いったん歩くことを覚えたら、ひとはそうそうは転ばない。でも、そのあとも心は転ぶなあ、と思う。子どもがおとなになっていく。その過程で周囲の人間を知り、世間を知り、そのなかの自分の位置を知って、生き方を覚える。自分なりの生きるノウハウを見つけ出す。本書(『心をはなれて、人はよみがえる』)の言葉によれば、「認識の制限」という「防衛機制」をこしらえあげて生きていく。
 ところが、この世は無常である。すべては移り変わる。せっかくのノウハウはいつまでも通用しない。葛藤が起こる。優等生として生きてきて、挫折する。良い息子、良い娘を演じ続けられなくなる。良い妻、良い母だったはずの自分に耐えられなくなる。会社に勤めてまじめにがんばってきたのに、仕事を失って同時に自分も見失ってしまう。
 そのとき、ひきこもりやパニック障害、うつ病などのさまざまな心の症状が現れる。心が転ぶ。転ぶどころか、葛藤がひどければ「心が死ぬ」(場合によっては肉体の死にもつながる、と高橋和巳先生は言われる)。
 しかし、ときにはカウンセラーの力を借りつつ、なんとか「心の死」を乗り越えて、「認識の制限」という枠をつくった自分も、それを壊したかった自分も、まるごと受容できたとき、心は再生する。そのことを、先生は「心をはなれて、生きる」と表現されている。じたばたもがき、悩み苦しみ、必死でがんばって、それでもつぶれかけた自分の心からはなれて、そういう自分を静かに見つめていとおしむ自分が生まれる。
「心をはなれ」たとき、そこで経験されるのは、それまで葛藤していた小さな自我(the self)ではなく、大我(The Self)である。もう役に立たなくなった生き方の枠が壊れ、それまでの心が死んでもっと広く大きくなって、小さな自我を外側から見ている自分が現れる、それが「大我」だ。そのとき、心は本来の自由を取り戻し、広やかに安定する。 
 高橋和巳先生は心を診る名医である。筆者はクライアントとして先生の前に座ったことはないが、本書をふくめた御著書を読んできて、そう思う。自分がずでんどうと転んで、心が死ぬほどではなかったがひどく捻挫して、そのあとに先生がおっしゃるとおりに癒えていった経験があるからだ。
 離人症めいた気持ちも、うつっぽい気持ちも、投げやりになってなにもかもぶち壊したくなる衝動も体験した。そして、もうにっちもさっちもいかない、どん底だというとき、ふっと、あーあ、しょうがないなあ、と空を見上げた。初夏の穏やかな青空だった。不思議に心は静かだった。たぶん、あのときほんの少しだけ、「心をはなれ」たのだろう。
 先生は、心とはじつに「精密に」「論理的に」動くものだと言われる。そして、心とは「もとは制限のないもの」だろうともおっしゃる。先生はひとの心を信頼しておられる。それが、御著書から感じ取れる、限りなく優しいまなざしになって現れるのだと思う。
 本書には、先生がカウンセラーとして長年見つめてこられたさまざまな例が具体的に語られている。ひきこもりの子どもとその親、パニック発作、うつ病、神経衰弱、子どもを虐待する母親、会社人間の挫折。どうもいまの世は生きにくいらしい。いや、人生はつねに生きにくいものなのかもしれない。
 たったいまこのような問題を抱えている方々や、その方々を助けるカウンセラーのみなさんに、それから生きにくさを感じているすべてのひとに、ぜひ本書を読んでいただきたいと切望する。

(よしだ・としこ 翻訳家)

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