無意味(ナンセンス)とアイデアへの讃歌

有栖川有栖

 本書『わが推理小説零年』は、山田風太郎のエッセイ・随筆から推理小説に関するものをセレクトして編まれている。これまで単行本に収録されなかった文章ばかり、というのがうれしい。仕事の合間に少しずつ楽しむつもりだったのに、読み始めたら最後までページをめくる手が止まらなかった。
 いくつか印象深かったところを挙げてみよう。
 冒頭の「わが推理小説零年」では、「回顧にまぬがれたい幻想をぬぐうため」として、昭和二十二年の日記が披露される。このように正確を期してくれたのは、まことにありがたい。というのも昨今、過去の推理小説界に関する言説の中に、「そうだったか? 違うだろう。若い読者が鵜呑みにしたら困るな」というものを目にするからだ。それに較べれば、山風(崇敬の念をこめて愛称で)の態度はとても誠実で清々しく、信頼して読める。
 日記は、「宝石」誌の懸賞小説当選の報に接した感想から始まる。土曜会(日本推理作家協会のルーツ)に初めて出席した時の模様も綴られていて、いきなりわが国の推理小説(当時の呼称は探偵小説)の歴史に触れる想いがした。
 その時の土曜会では横溝正史の『本陣殺人事件』が合評の俎上にのったそうで、「日本にはじめて現われたる野心的本格作品なり」と結論の一致をみながらも、「みなの余りのうるささに」大下宇陀児(うだる)が「探偵小説なんて書くもんじゃないなあ!」と詠嘆するエピソードが紹介されていて、笑ってしまった。昨今の作家は、あまりこのような議論を戦わせることがない。『本陣殺人事件』という作品がまさに一大事件だったせいもあるだろうが、作家や愛好家たちが探偵小説に寄せる愛と熱が感じられる。推理小説の青春時代だった、と言うべきか。文書はワープロで作成するのが当たり前になっているので見過ごしていたが、「なお土曜会への案内状は一々すべて乱歩先生の手書きであった」という付記に、はっとした。  食糧の配給が遅れがちで「生きているだけが大手柄」だった社会状況と、「不連続殺人事件」を執筆中の坂口安吾に土曜会で挑発(?)されたり、クリスチーの「アクロイド殺し」に感服したり、映画「蝶々失踪事件」の愚作ぶりに呆れ果てたりする日々がモザイク状に描かれていて、興味は尽きない。
 山風は、昭和三十七年のインタビューで「ぼくは本格派擁護者ですよ」と答えている。自身の作風は幅広く、奔放だったが、独特の技法で書かれた本格推理への愛着は、本書でも窺える。昭和二十二年十一月九日の日記では、「探偵小説は殺人を扱わなければ探偵小説ではないという常識を打破せよ」という丹羽文雄の提言に対して、殺人は材料にすぎないのであって、「論理、トリック、謎、推理の新しい方式の発見こそが重大」と反論している。推理小説が何か理解できていないな、と言いたげだ。今日でも「映画館で上映中に明かりを消すのは何故だ?」というレベルの疑問を推理小説に対して抱く人はいる。
 この調子で列挙していたらキリがないので、一番ぐっときたところを。
 自作について語った「風眼帖」の一節。忍法帖を「アイデアだけ」と評されて、山風はそれを「誇りとする」と切り返す。そういう評者は小説に人生を読みたいのだろうが、人生なんて「おたがいにイヤになるほど味わっており、かつしょせん無意味(ナンセンス)な人生が多い」だろうし、「そもそも、この地球上の歴史や運命を動かしているのは、大分前から『人生』ではなくて『アイデア』だ」と。この無意味(ナンセンス)とアイデアへの讃歌。見事な啖呵で、さすがは山風先生、と惚れ惚れした。
 また、「私の江戸川乱歩」では、これまで聞いたことがない乱歩先生の秘密(!?)が、相当の説得力をもって推理されており、唸ってしまった。
 読みどころ満載で、山風ファンも推理小説ファンも見逃せない、楽しくて含蓄のある好著である。

(ありすがわ・ありす ミステリー作家)

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わが推理小説零年 ─山田風太郎エッセイ集成

山田 風太郎 著

定価1,995円(税込)