神とはなくそ

夏石鈴子

「もったいない」という言葉が、近頃「MOTTAINAI!」などと表記されたり、何かのスローガンになり、たくさんの人が笑顔と一緒に大声で叫んだりすると、「あー、ちょっとちょっと」と言いたくてたまらなかった。本来、この言葉を使う時は恥かしがってもらいたい。まずそれがお作法その一だ。次は、決して大きい声では言わないこと。本当は、「まあ」などが頭に付くと丁度いいのである。「まあ、もったいない」。あ、いい感じ。また、最後は、「もったいない……」と、フェイドアウトすると、もっと好感度はアップする。
「えっ、どうしてですか。いいことだからみんなで力を合せて、声を合せたらいいではないですか」などと、コドモは大きな声でまっすぐな瞳をして言いそうである。こういうまっすぐな瞳って困りますね。この世は正しいことだけが正しいわけではないのである。猿も困ったものだけれど、コドモも困る。やい、コドモ。悔しかったら、何か面白いことでも言ってみろ。
 それでは「もったいない」とは、一体何か。エコでもない、けちでもない。まして節約でもない。抑えていても、つい出てしまう反射神経と言えばいいのか。  手始めは、まず輪ゴムになるのはしょうがないことである。アフリカには、輪ゴムってないのかな。生活していく中で、輪ゴムが自然に水道の蛇口に溜まっていく国では、国民はみんな「もったいない」を知っています。わざわざ、あれを捨てる人はいない。溜まっていくうちに、結局使わずに古くなってがびがびになると、「しょうがない」と思う。「もったいない」と「しょうがない」は、輪ゴムが豊富に与えられてしまう国では、つい身についてしまう。  わたしは、『もったいない話です』を読んで感動した。著者の赤瀬川原平さんのことは前から、「この方は本当に凄い方だ。凄すぎて、なんだか同じ人間とは思えない。もしかしたら、神様かも」と思っていた。今回、本書を読み、その思いを更に深くした。なぜなら、著者は、そこら辺をてこてこ歩いている凡人には、全く思いつかないものばかりを、実に丁寧にもったいながっているのだ。
 例えば、はなくそ。本書では、「鼻糞」あるいは「鼻〇」と表記されているが、わたしは大人の女なので、はなくそ、と書く。自分の鼻から取ったはなくそを、もったいながる人類が果してこれまで存在しただろうか。あるいは、はなくそについて熟考を重ね、その寿命について語った文章があっただろうか。そもそも、はなくその寿命とは一体何か? そんなものはあるのか? わたしはそのようなことを考えたことがなかったし、考えようとも思わなかった。はなくそは、詰まると苦しいのである。取ったら、それでおしまいで、捨てればいいだけのことである。けれど芥川賞作家・赤瀬川原平は、はなくそについて自分の考えを、体験、以前夢に出てきた良質物件の描写をまじえて書き進める。露悪的な嫌らしさは、全くなく、純粋にはなくそのことを一心に考え、わかりやすい文章を書いている。そこには、熱い思いと、どうしても書きたいという真剣さがある。細部に神は宿り賜うと言うけれど、実は細部にこだわるのが神ではないか。自分のはなくそさえも、このように大切に思い、もったいないなどと言えるのは人間か。人間はただ早くはなくそを捨てたい存在だ。
 うっかり倍率を間違えてしまったコピー、型が少し古くなってしまったコンピューター、引越先には持って行けない古い家具、会社の傘立てに溜まってしまい結局は処分する傘の束。そんなものを「もったいない」などと言っているようでは、まだ甘い。神は、伸びた爪も、ご自分の酔った勢いで捨ててきた童貞も、はなくそも、味のなくなったガムも、「もったいない」と言っている。わたしは本書の続編を今から熱望する。これ以上何を神はもったいながるというのか。それを、人としてぜひ知りたい。

(なついし・すずこ 作家)

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もったいない話です

赤瀬川 原平 著

定価1,470 円(税込)