米沢嘉博の“衝撃”——『戦後少女マンガ史』

唐沢俊一

 その登場を“衝撃的”という言葉で語られる著書はいくつもあるが、『戦後少女マンガ史』(一九八〇)が現れたときの感じが、まさにそれであった。著者の米沢嘉博氏が亡くなり、多くの人がこの本の出現を“衝撃的”だった、と述べているのを聞いて、“わが意を得たり”とニヤついていたのである。
 ……ところが、そういう表現をする人と、この本のことを話しているうち、どうも、意味の食い違いがあることに気付いた。「それまで個別に、また無系統にしか語られてこなかった少女マンガを、初めて日本の戦後文化史の中に位置づけて論じた」のが衝撃的だった、などと皆、話すのである。その位置づけには私も異存がないのだが、私が『戦後少女マンガ史』を初めて読んで、鼻息を荒くするほど興奮したのは、そこにではないのである。ショックを受けたのは、“少女マンガ”という媒体を、ここまで読み込み、その内容から、きちんと戦後史の中で収まるところに収めて評価した著者が、れっきとした男性だった、ということであった。そうだ、男性がやってもいい仕事だったのだ、自分はこれまで何をのんべんだらりとしていたんだ、と、私は自分で自分の怠惰と先入観を責め、ついで、この著者の蛮勇につくづく敬意を感じ、しかりしこうして、マンガ史研究という、それまでの自分の、将来の進むべき道として置いていた目標を、ほとんど放棄してしまった。それくらいの衝撃があったのである、この事実は。つまるところ、この『戦後少女マンガ史』という一冊は、私の人生を変えた本と言えるかもしれない。
 もともと、男性が少女マンガを読むというムーブメントは、この本の発行の七、八年前から、われわれマンガ愛好の徒の間で密かに流行っていた。SF・ファンタジーの分野において、萩尾望都が『ポーの一族』『11人いる!』などという傑作を精力的に発表しはじめた頃で、SFマニアを自称する男性としては、いっぱしのことを語るためには、おそるおそるという感じで、禁断の少女マンガの世界をのぞいて見る必要があったのである。で、こういう風に一旦垣根を越してしまうと、あとは近隣の竹宮惠子や山岸凉子、ちょっと恥ずかしいのを我慢して大島弓子、さらには男性作家で和田慎二、魔夜峰央といった人たちの作品を読んで、いっぱしの少女マンガ論じみたものを喫茶店で戦わす、というのが七〇年代半ばのスカしたSF・マンガマニアの平均的なスタイルであった、と記憶する。
 しかしながら、私たちそういうスカしたマニアたちは、無意識に、あるいは意識的に、これらの作者とその作品が、少女マンガの中では異端に近い作品である、ということには目をつぶっていた。王道であるところの、里中満智子や池田理代子、一条ゆかりといったあたり、さらにはもっとディープなわたなべまさこや保守本流とも言うべき田淵由美子、陸奥A子、太刀掛秀子などの作品をマンガ作品として語る、さらには評価する、という視野を、残念ながら当時の私たち男性は持ち合わせていなかった。逆に言うとSFや少年マンガとの関連にかこつけてでないと、少女マンガファンである、ということを表明するのは難しかった。やはり、心の底のどこかで、少女マンガ蔑視というものが刷り込まれていたのだろう。
 そんな区分というか棲み分けというか偏見というかあるいは別の何かしちむずかしいことを、この『戦後少女マンガ史』は何のこだわりもなくクリアしていた。その底に、マンガという大きなククリを愛するという意識が流れていて、読んでいての心地よさはちょっとなかった。私は自分の精神の卑小さを恥じたものである。口にはしないが、同じことを思った男性のマンガマニアは多かったと思う。
 この衝撃は、奇妙な現象を生んだ。少女マンガを系統的に語るのは男性の仕事、というような認識を生み、「少女マンガは読者でなく評論家が発見するもの」という考え方を定着させてしまったのだ。女性の視点から、系統だててマンガを評論してきた人材が、当時中島梓くらいしかいなかった状況がさらに立ち遅れた原因は、じつにこの本にあると言っていいかもしれない。あまりにこの本が衝撃的すぎた反動かもしれないが、しかし、それは、それだけ、この本の与えた衝撃が、本来の少女マンガ読者にも大きかったことを、示しているのだと思う。
 若者はもちろん、年配の読者にも、書きしるしたことばがまっすぐ伝わることを願っている。

(からさわ・しゅんいち 作家・評論家)

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戦後少女マンガ史

米沢 嘉博 著

定価735円(税込)