すっきり爽快な〈道徳〉論——藤原和博さんの『新しい道徳』を読む

梶田叡一

〈道徳〉という言葉は、どこかウットウシイ。目にしたり耳にしたりして、元気が出るわけでも粛然とするわけでもない。
 与謝野晶子に
  やは肌のあつき血汐にふれも見で
  さびしからずや道を説く君
の歌がある。政界や財界で名が出て肩書きを持ったりすると、やたらと道を説きたがる人がいる。最近ではTVタレントの中にも、そうした臭いを漂わせている人がいる。したり顔に小理屈をこねて、自分だけ「正義の士」であるような顔をして、この道学先生めが! と思ってしまう。たいてい後になって、スキャンダル絡みで化けの皮が剥げてしまうのであるが……。
 しかし、藤原和博さんは、これとは全く違うタイプの人である。私も何度か会議などで御一緒したが、既成の概念にとらわれない自由奔放な発想をされる。民間人校長という枠にも嵌(は)まらぬ異色な方である。だからこの本は、ウットウシイ〈道徳〉の本ではない。
〈道徳〉がウットウシイのは、世の中的な「唯一の正解」を押しつける感があるからである。その当時の社会で人々が口にし合う「常識的見解」にがんじがらめにされるのは、窮屈でもあり、腹立たしいことでもある。この点について藤原さんは、「成熟社会」では一人ひとりの納得する「自分持ちの正解」でなくてはならないとする。といって、「何でもあり」ということではない。自分の納得する底にきちんと美意識が育っていれば、唯一の結論は存在しないにしても、他の人にも分かってもらえる妥当な幾つかの正解のどれかに辿り着けるはずだ、ということである。
 もう一つ、〈道徳〉がウットウシイのは、「善と悪」「正と誤」「美と醜」「正義と不義」という二項対立で何でも割り切ってしまうからである。中間のグレーゾーン、判断留保的な態度、メリットとデメリットを幾つも挙げての判断、といった考え方を排除しがちなところにある。かつてコージブスキーやサミュエル.I.ハヤカワが一般意味論を提唱し、二価値的判断の危険性を様々な角度から説いたが、〈道徳〉を論ずる人は、まさにそうした二価値的判断の落とし穴に陥りがちである。藤原さんは、現代社会では、テレビやケータイ(携帯電話)が、こうした二項対立的見方を増幅し、蔓延させていると見る。私も同感である。
 現代は、「唯一の正解」があるという前提に立って、しかもその「正解」の中身を単純な二項対立で結論付けるという形で、人々に思考停止を余儀なくさせる時代である。「規範意識」を言い立てる教育再生会議の一部メンバーの方の発言には、まさにその典型を見る思いをすることがある。
〈道徳〉を、藤原さんは「理性の運用技術」だと言う。言い得て妙である。道徳性と言われる行動と判断の原理が内面に育つこと、このことは理性が育つこととほぼ同義ではないだろうか。外から教えられることも必要であるが、最終的には自分自身の「実感・納得・本音」の世界に原理的な何かが育たなくては本物でない。理性そのものを外から教え込むわけにいかないのと同様である。
 藤原さんは歯切れのいい人である。この本もまた、歯切れの良さでは秀逸である。だから読後感がすっきりして爽快である。

(かじた・えいいち 心理学/教育研究)

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新しい道徳

藤原 和博 著

定価798円(税込)