マッカーサーが仕掛けた時限爆弾と皇統の危機

笠原英彦

 二〇〇四年に小泉内閣が皇室典範改正の意向を表明したことで、マスコミや論壇で改正の賛否をめぐり激論が交わされたのは記憶に新しい。しかし周知のとおり、二〇〇六年の秋篠宮紀子妃のご懐妊を機に、小泉首相は皇室典範改正法案の通常国会提出を見送った。秋に無事悠仁親王が誕生すると、皇位継承をめぐる議論は一気に沈静化した。
 いま、時間の経過とともに皇室典範をめぐる議論を冷静に振り返ると、なぜ皇室典範の改正が必要になったのか、原点に立ち返って再検討する必要に気がついた。
 そもそもの原因は、マッカーサー率いるGHQの占領改革にある。マッカーサーは華族制度の廃止、一四宮家のうち直宮(昭和天皇の兄弟)を除く一一宮家五一方の皇籍離脱を命じたのである。大正時代以来批判の多かった側室制度の廃止により、明治天皇や大正天皇のような庶子の皇位継承権も消滅していた。にもかかわらず、「男系の男子」にのみ皇位継承資格を限定する旧皇室典範以来の原則はそのまま維持されたのである。
 戦後まもないこともあり、「国体の護持」を至上命題とする日本政府は天皇制の存続や昭和天皇の免責に安堵し、米国政府やGHQの意向を踏まえマッカーサーにより周到に仕掛けられた皇統断絶という時限爆弾の存在を見逃したのである。
 筆者は二〇〇一年に『歴代天皇総覧』(中公新書)を公刊し、日本における皇位継承の流れを追い、皇統断絶の危機に気づいた。側室制度の廃止、戦後の一一宮家の皇籍離脱という厳しい条件の下でなお、皇位継承資格を「男系の男子」に限定するのは無理がある。そこで、二〇〇三年『女帝誕生』(新潮社)を出版して警鐘をならしたのである。
 二〇〇四年になり、ときの小泉首相が皇室典範改正に取り組む姿勢を示したのには、さすがに驚いた。二〇〇一年一二月に皇太子夫妻のもとに敬宮愛子内親王が誕生したことがきっかけとなったのであろう。
 その後、小泉首相の私的諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」が設置されるに及んで、宮内庁の準備したたたき台が「女性・女系天皇容認」であることが明らかになってきた。上記の拙著では、いったん女性天皇を容認すると女系天皇も容認せざるをえなくなると指摘した。過去の女帝は寡婦か未婚者であったが、当節女性天皇に独身を強要することを国民世論は認めないであろう。
 皇位継承を初めて法定した明治の旧皇室典範の起草に際しても、女系継承が提案されたが、井上毅らの強硬な反対により退けられた。女系継承を容認した草案を手にした当時の最高実力者、伊藤博文も、女帝の配偶者を規定した草案の第一三条に目を止め、自ら「第一三条難解」と朱筆を入れている。  小泉内閣下の議論でも、女性天皇の配偶者をいかに規定されるかが注目された。戦後、華族制度が廃止されたから、もはや配偶者を供給する皇配族が現代の日本には存在しない。
 あくまで男系維持を主張する人々は旧皇族の復帰や養子の解禁を主張する。旧皇族は皇位継承資格者の供給源として余りに小さすぎると筆者は考える。なぜサンフランシスコ講和条約の発効後、政府は旧皇族を直ちに皇籍復帰させなかったのであろうか。明らかに、当時の政府の不作為は厳しく問われねばならない。
 現行の皇室典範を放置したまま、悠仁親王の成長を待つ間に、愛子内親王も含め、宮家の内親王や女王は婚姻のため次々と皇籍離脱する可能性がある。宮家の縮小は皇統存続にとって致命的である。もはや男系か女系かに議論を矮小化している場合ではない。象徴天皇制の下、日本人の精神的支柱である日本の皇室を守れるか否かは日本国民の主権者意識にかかっている。
(かさはら・ひでひこ 慶應義塾大学教授)

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