〈狐〉の書評のこと

竹村洋一

 先日、家で酔っ払い、山村のご機嫌でもうかがおうかと携帯電話を手にした瞬間、ああ、もうアイツはいないんだと気づき、痛切な哀しみに襲われるとともに、周囲の風景がぼやけた。山村との付き合いはもっぱら当方が酔っぱらって電話する、という一方通行がほとんどだった。その際、話す内容は、他愛のないバカ話。酒を飲んだときも同様で、そういえば、こんなことを話したことがある、と今でも思い出すような中身がある会話は一度もなかった気がする。

 また、文学論を戦わせたこともない。山村の書庫にあって当方が読んだ覚えがある作家は故吉行淳之介に故山田風太郎、それに東海林さだおさんの一連の食べ物エッセイぐらい。最後の著書となった「〈狐〉が選んだ入門書」に登場する二五冊の入門書の書名を見ても、なんでこんな本に興味を持ったんだ、と呆然とするばかりで、山村と当方では知的なレベルが違いすぎ、加えて読書傾向が異なり、作家や書物に関する話は成立しなかった。

 そんな当方が〈狐〉が誕生するきっかけを作った。不思議といえば不思議だ。八〇年の暮れ、当方は夕刊紙「日刊ゲンダイ」の書評面を担当しており、シッカリした書評を書ける人間を探していた。そこで思いついたのが、高校時代からの友人にして、当時から本好きでは人後に落ちなかった山村だった。

「ウチで週一回、書評を書いてくれ」突然の頼みに、当初、山村は無理、無理と断った。当然だ。それまで自分の文章を不特定多数の人間を対象に発表した経験などない。同じ立場だったら、当方だって断る。  それをどうやって説得したか。正直、記憶にない。多分、酒をしこたま飲ませ、半ば脅迫気味に承諾させたのだろう。

 しかし、いったんスタートしてしまえば、最初は生硬な印象だった山村の文章も徐々にこなれてきて、三ヶ月も経てば軌道に乗った。ただ、問題もあった。取り上げる本は丸投げしたとはいえ、プルースト全集や山村の唯一の趣味だった謡曲関連の本の書評を書いてくるのだ。

「おいおい、仕事で疲れたサラリーマンが帰りの電車でプルーストを読むかい? サラリーマンが読みたくなる本を扱ってくれ」こんな注文を何度かし、山村も「そうだなあ」と納得した風であった。もっとも、あくまでも「風」であり、翌々週ぐらいからは再びプルースト全集と似たり寄ったりの本の書評が載った。

 注文といえば、「たまには評判になっている本を、この中身はおかしいとクサしてくれ」と頼んだことがある。実際、ベストセラーにいちゃもんをつけた書評が二、三本あった。しかし、心優しい山村はクサすことが苦しかったと同時に、「書評を読んだ人がその本を読みたくなるのが最高の書評」という考えを持っていたため、それだけで終わった。

 そんなこんなで〈狐〉の書評は八一年二月から〇三年七月までの二二年半、一一八八回続いた。二二年半という年数は、週一回の連載でも面白くなければ一ヶ月で打ち切られてしまう日刊ゲンダイにとって異例の、いや、異様な数字だ。

 とはいえ、山村の死後、各所から聞こえてくる〈狐〉の書評への賛辞とその死を惜しむ声に接すると、それもむべなるかなと思う。 その一一八八回の間、筆が思うように進まない時期もあったろうに、たまに「面白い新刊がなくて」とボヤく程度で、連載を続ける苦痛を訴えてきたことはまったくない。

 想像するに、日々の生活で溜まった澱を書評を書くという行為で吐き出して、清々とした気持ちになる。山村にとって書評とはそうしたものではなかったのか。だから、一冊の書評を書くのに、二、三冊の本を参考に読むことも当たり前と受け止めたし、書くこと自体、苦痛でも何でもなかった。 「あの野郎、勝手なことをいいやがって」とあの世で苦笑いしているかもしれないが。

(たけむら・よういち 日刊ゲンダイ編集部)

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