脳をよみがえらせる算数

竹内 薫

 先日、ヨガのインストラクターをしている妻が、通勤電車の中で、某学習塾の広告に載っている問題を覚えてきた(解いたのではない。文面を覚えてきたのである)。  

私は、たまたま、ちくま新書の編集のMさんと家で雑談していたのだが、「あなたたち、この小学生向けの算数の問題、解けるかしら?」という妻の挑発的な態度に、二人ともムッときた。
(ふ、そんな子供だまし(?)の問題、すぐに解けるに決まってるじゃねえか)  

私とMさんは、薄ら笑いを浮かべながら、妻の挑戦を受けてたつことにした。  

一時間後……。
私とMさんは、涼しげに口笛を吹きながら、われわれを眺めている妻に、少なからぬ憤怒の情をおぼえつつ、小学生の問題を前に「固まって」いた。  

この事件は、日頃、科学作家として鳴らしている私の自尊心をいたく傷つけ、その結果、私は、自らの頭を(往年の回転速度にまで)よみがえらせるべく、怒濤の勢いで、小学生の算数の難問集を解き始めた。  

最初のうちは、xやyといった未知数をつかったりして、いわば「大人の解き方」で問題をやっつけて、ひとり悦に入っていたのだが、やがて、私は、あることが気になり始めた。
(待てよ、小学生は、こんな大人の方法は知らないはずだ。子供たちは、いったい、どうやって、こんな複雑怪奇な難問を解いているのであるか?)  

リサーチを始めた私は、そこに、大部分の大人が、とっくの昔に忘れてしまった、瑞々しい発想法が存在することを知った。小学生たちは、驚くべき頭の柔軟性を駆使して、大人でも舌を巻くような難問を、スラスラと解いてゆく。(これは、頭の柔軟体操みたいなものなんだ!)

私は、事務所内の和風スタジオで、曲がりくねったヨガのポーズをとっている妻の姿を見ながら、身体の関節も脳のはたらきも、毎日、柔軟体操をしていないと、コチコチに凝り固まってしまう、という現実に(遅まきながら)気づいたのだ。  

私は、そこで、すでに(大人の方法で)解いた問題を、あたかも小学生になったかのごとく、厳密に小学生の方法で解いていった。いや、正直に告白すると、問題の多くは、子供の発想を失っている私には解けなかったので、実際には「勉強していった」というべきだろう。  

そんなこんなで出来あがったのが、九月新刊の『頭がよみがえる算数練習帳』なのである。もちろん、編集は、一緒に固まってしまったMさんだ。  

この新書の草稿を書き上げたのは昨年末だった。二カ月ほどして、別の出版社から「発想法」の本を出してもらった。驚くべきことに、その本は、三〇万部を超えるベストセラーとなった。

 いや、売れたのを自慢しているのではなく、そのベストセラー本を書いた時期が問題なのである。それは、ちょうど、私が、せっせと算数の練習問題を解いていた時期と重なるのだ。  

科学作家としてデビューして以来、ほぼ一五年の間、ほとんど鳴かず飛ばずでやってきた私だが、どうやら、妻に挑発されて始めた「頭の柔軟体操」のおかげで、何かが変わったらしい。文体も、本のつくり方も、あるいは、メリハリのようなものも変化したのだろう(最近、よく、竹内さんは脱皮しましたねぇ、などと言われて苦笑する)。  

昨今は、脳トレのブームであるが、よくよく考えてみると、江戸時代や明治の日本人がやっていたのは、読み書きソロバンだけだったのであり、それこそが、健全かつ自然な脳トレなのかもしれない。  

ちなみに、算数問題で私を挑発した妻は、今度は、頭ではなく身体の柔軟体操(ヨガ)をやらせようと、新たなる挑発を始めている。やれやれ、である。

前のページへ戻る

頭がよみがえる算数練習帳

頭がよみがえる算数練習帳

竹内 薫 著

定価756円(税込)