ちくま学芸文庫、書店めぐり

永江 朗

 ちくま学芸文庫が創刊15周年を迎えるというので、書店ではどんなふうに売られているのかを見に行った。
 最初に訪ねたのはジュンク堂書店池袋本店。日本で一番大きな書店である。文庫売場は三階。図書館のように背の高い棚が林立する光景は、いつ見ても壮観だ。ちくま学芸文庫の白い背表紙は遠くからでも目立つ。
「ちくま学芸文庫のお客さんは男子学生が多いですね。最近は年配の方も増えてきていますが。ほんまの本好き、という雰囲気の人が多いと思います」
 関西弁まじりで話してくれるのは伊藤傑さん。神戸にルーツがあるジュンク堂で関西弁を聞くと、ちょっとうれしい。
 開店以来累計の売行きリストを見せてもらった。一位は『オイラーの贈物』(吉田武著)。数学の本である(私は最初、『おいらの贈物』だと思っていた)。ちくま学芸文庫は人文・社会科学系というイメージがあったから、かなり意外だ。
「これは理工書の売場でも置いています。一般に、文庫を単行本の売場に置くとよく売れるんですが、理工書は特にすごい。最近始まった〔Math & Science〕のシリーズもいいですね。まわりの単行本が高価だから、おトク感が増すのかもしれません」
 同じように単行本の売場でよく売れる文庫に『錯乱のニューヨーク』がある。現代建築界のスーパースター、レム・コールハースによる都市論だ。建築書売場で人気だ。
 直接の担当は中野渡英貴さん。担当してまだ半年だが、自宅には学芸文庫が百冊以上あるという現代思想おたくである。なにしろ休憩時間を使って大量の本を斜め読みし、内容を把握して平台の本の配置を考えるというのだから脱帽する。
「学芸文庫はできるだけ思想の内容的連関で並べようと考えています。たとえば四月と五月は分析哲学関係のものが出ますから、ラッセルやプラグマティズム関係と並べようとか、『空間・時間・物質』(ヘルマン・ワイル著)は『ブリタニカ草稿』(フッサール著)や『知の構築とその呪縛』(大森荘蔵著)と並べてみよう、なんていうふうに」と話す。
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 山手線で高田馬場へ。そこから歩いて、あゆみBOOKS早稲田店に行く。面積はジュンク堂の数十分の一だが、ちくま文庫・ちくま学芸文庫は全点常備。売場の熱気に圧倒される。
 専務の鈴木孝信さんは、いまは早稲田店の店長を兼任しながら、本社営業本部長として全店を統括する立場だ。
「当店は売場が限られていますから、絞り込んだ品ぞろえをしなければなりません。お客さんの中心は早稲田大学の学生ですので、講義やレポートの副読本・資料、そして興味を持つもの、というのが要諦です。そのうえで、ちくま文庫・ちくま学芸文庫は全点そろえることにしました」
 こんなことを本誌で言ってはミもフタもないが、これだけたくさん文庫があるなかで、学芸文庫はマイナーだ。でも、そのマイナーな学芸文庫を全点並べることで、書店にとって重要な魅力のひとつである豊富感がぐっと増したそうだ。
「よく売れています。これも! と驚くことがある。絞り込んで売ることの難しさを再認識させられます。やはり学生は多方面に関心を持っていて、学芸文庫はそれによく応えられているのだと思います」
 ちくま学芸文庫は、ちくま文庫の意味や位置をより深めたもの、と鈴木さんは言う。ちくま文庫は文芸に加えて、人文科学や映画・音楽・美術・芸能(特に落語)、さらにサブカルチャーや趣味、生活などを含め、文庫の可能性を広げた。学芸文庫はその上に人文科学・社会科学・自然科学などに特化して別立てにした。これによって教養書・資料としての位置が加わった、と鈴木さんは見る。
 これまで早稲田店でよく売れたタイトルに『自分を知るための哲学入門』(竹田青嗣著)がある。学芸文庫ではなくちくま文庫だが、同じ著者の『「自分」を生きるための思想入門』もロングセラーだ。「早稲田は現代思想に関心がある学生が多い」という鈴木さんの言葉に納得する。そういえば竹田さんは早稲田の出身である。竹田さんは和光大学・明治学院大学を経由して、少し前に早稲田大学に戻ってきた。
 ちくま学芸文庫の多くは、親本が何万部も売れたようなヒット本ではない。ひと昔前なら文庫になりえなかったものが多い。
「そこが筑摩書房の感性の良さではないでしょうか。なかなか文庫にならない、しかも親本も市中で見かけなくなっている。そういう本を発掘して文庫化している。編集の目の進化と、それを可能にする経営・営業の力を感じますね」と鈴木さんは言う。
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 地下鉄東西線・半蔵門線を乗り継いで神保町に。三省堂書店神田本店を訪ねる。そういえば、昔、筑摩書房はこの近くにあった。
 二階、文庫売場の係長、大月由美子さんが入社したのは一五年前。ちくま学芸文庫が創刊された年だった。
「自由が丘店や下北沢店などを経験してきましたが、神田本店は売れるタイトルも量も売れ方も違うのでびっくりしました」と大月さんは話す。
 まず、客層の年齢が高い。中心は中高年の男性で、まとめ買いをする人も多い。ほうぼうの書店を探し回って神田本店にたどり着く人もいて、遠路はるばるという読者も少なくない。いまはウェブで在庫検索ができるのだが、取り置きせずに来店する人もいる。ところが検索から来店までのわずかな間に売り切れてしまうこともあり、がっくり肩を落として帰る姿もあるとか。
「動きのいいタイトルは二冊ずつ棚に入れるようにしているんですが、それでも間に合わないことがあります」
 ジュンク堂、あゆみBOOKSもそうだが、こちらでも学生客が多い。多くの大学には生協があり、組合員は割引購入できるはずなのだが、なぜ彼らは書店で買うのだろう。
「生協になかったら書店で買うようです。わざわざ注文・取り寄せしてまで、と思うみたい。すぐ手に入れたい、待てない、という学生が多い。だから全点を置いている書店に行くんだと思います」
 私が学生のころ(三〇年前)は、少しでも安く買うために歩き回り、注文して二週間でも三週間でも待ったものだが……。今どきの学生はリッチだなあ。
 三省堂書店でも数学系の学芸文庫がよく売れるそうだ。『算法少女』(遠藤寛子著)に『πの歴史』(ペートル・ベックマン著)、『数学史入門』(佐々木力著)。思想関係では『増補 ケインズとハイエク』(間宮陽介著)などがロングセラーだ。
「学芸文庫を買う人は新聞の書評欄をよく読んでいて、書評が出ると売行きが違います。神田本店には書評チームがあって、毎週日曜日にミーティングして、該当する売場に書評を伝えるシステムになっているんですよ」
 新刊は棚の端にあるエンド平台に平積み。棚前の平台には既刊の売行き良好書が積まれている。既刊良好書のうちランキング下位の本は、前月の新刊のなかの良好書と入れ替えるという、まるでJリーグのようなシステムになっている。これと棚のなかで面陳列を使ったフェアとを同時展開。担当者も楽しんで棚を構成しているそうだ。
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 半蔵門線、東横線と乗り継いで横浜。ルミネ四階のヴィレッジヴァンガード横浜ルミネ店へ。ヴィレッジヴァンガードは本とCD、雑貨を混在させて売る店。人によって「雑貨も置いてある本屋」だったり、「本も置いてある雑貨屋」だったり、とらえ方が違う。
 えっ? ヴィレッジヴァンガードにちくま学芸文庫が? と思う人もいるかもしれない。あるのだ。よく売れているのだ。もちろん全点ではなく、相性のいいものだけを厳選して置いているのだけれども。
「そういえば、ちくま学芸文庫だからって、特に意識したことはないですね。この人が書いたこの本だから置く、っていう気持ちです」と話すのは店長の大八木孝成さん。これまで東京では六本木ヒルズ店(閉店)や自由が丘店に勤務。エリア・マネージャーも兼任している。
 ここ横浜ルミネ店でどーんと積まれているのは、鷲田清一さんの『モードの迷宮』や『てつがくを着て、まちを歩こう』。それとこれは学芸文庫ではなくちくま文庫だが『ちぐはぐな身体』。『モードの迷宮』には「小難しかった鷲田氏の文章が変わった、ターニングポイントの本!」と、『てつがくを着て、まちを歩こう』には「おっ文庫に! めでたい! この本は単行本ででて、すぐ出版社が倒産したんで手に入りづらかったんですよね。(倒れてすぐは古本屋で安かったけど)哲学からファッションを考えるもよし。ふだんからなにげなく好きな本がこんなにも「考える」べきものだったんだとオドロクもよし。とにかく面白いんです、この人は!」なんていうPOPがついている。
「僕から見た鷲田さんの印象は、難解なことを象牙の塔の中ではなく路上でわかりやすく語る人。哲学的なことを日常のなかで考えるというのは、ヴィレッジヴァンガードに近いかもしれない」
 と大八木さんは言う。
 楽しそうな雑貨に囲まれ、ちょっと変わったJポップが流れるなかに置かれた鷲田清一さんの本は、不思議と風景によく溶け込んでいて、違和感はまったくない。哲学が、学芸が、こんなところにもあった、という気分になる。

(ながえ・あきら フリーライター)

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