「猫に鰹節」……追悼若桑みどり

上野千鶴子

 若桑みどりさんがいなくなった。今でも信じられない。亡くなった、というより、いなくなった、というのが実感に近い。
 なにしろ格調高い美術史学界のひとだから、わたしとは無縁だと思っていた。そのひとが『戦争がつくる女性像——第二 次世界大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ』(筑摩書房、一九九五年、ちくま学芸文庫収録)で、急速にジェンダー史に接近してきたのは九〇年代半ば以降。あとがきには、「戦争中に生まれ、子供時代に疎開と空襲を体験した」とある。若桑さんご自身の、「これだけは言っておきたい」という焦迫の思いがあふれている。
 八五年にはすでに『女性画家列伝』(岩波新書)を刊行しておられたが、九〇年代以降には、「慰安婦」や「教科書」問題にも積極的に発言し、千野香織さんたち若手とイメージ&ジェンダー研究会をつくるなど、積極的に「ジェンダー研究」の推進役を買って出られた。美術史の現状に対するふんまんやるかたない思いばかりでなく、九〇年代以降の右よりの思潮によほど危機感をつのらせておられたのであろう。その千野さんも四十九歳で早逝した。
 学問界隈では「ジェンダー研究者」を名のってよいことは何もない。業界内の周辺部に追いやられるだけである。とりわけ、美学や芸術学の分野に「ジェンダー」などの、俗世間の変数を持ちこむことはタブー。美の価値は、時代も世代も性別も超える、と考えられているからだ。若桑さんは、その頃すでにエスタブリッシュメントだったが、腹をくくってジェンダー研究を引き受けられたのだと推察する。
 若桑さんには『岩波近代日本の美術2 隠された視線——浮世絵・洋画の女性裸体像』(岩波書店、一九九七年)という日本近代美術史をジェンダー視点から読み解いた名著があるが、その一節が忘れがたい。なぜ近代美術はあくことなく、女のハダカばかり描いてきたか、という問いを立てて、彼女はこうきっぱり答えたのだ。
「鰹節の像を膨大に生産・消費する文明の、生産・消費の主体は猫である。」(同書、一六頁)
「猫に鰹節」のたとえどおり、「女のハダカ」を欲望する者はだれか? 男に決まっている。男支配の家父長制社会だからこそ、女のハダカが「美」として尊重されるのだ、と。この一節を講演で紹介するときには、いつも笑いをこらえられない。こんな卓抜なたとえは、彼女以外のだれも思いつかないだろう。
 わたしが若桑さんと急接近することになったのは、バックラッシュのおかげである。二〇〇六年一月に、国分寺事件として知られる、東京都が上野を講師とする人権講座に介入して、東京都と国分寺市共催予定だった講座がとりやめに至った事件(翌年、国分寺市主催で実施)が発覚。それというのも、女性学研究者である上野が、講演で「『ジェンダーフリー』という言葉を使うかも」という、言論統制、思想信条の自由をおびやかすような理由からだった。ただちに抗議行動を起こしたわたしを支援して、ネット上で三日間で一八〇八筆の抗議署名が集まった。若桑さんたちが代表して、東京都へ署名を届けたその記者会見の場で、彼女は「どうしてこんなアクションを起こしたのか」と新聞記者に訊かれて、「上野さんを孤立させてはならないと思ったから」と答えたのだ。その抗議行動の成果は、彼女も編者のひとりとなった『「ジェンダー」の危機を超える! 徹底討論! バックラッシュ』(青弓社、二〇〇六年)となって刊行されている。
 時と所はタカ派政治家、石原慎太郎政権下の東京都。そののちネオコン政治家の安倍晋三が内閣首班になって、ジェンダー関係者の危機感はつよまった。二〇〇七年の四月には、石原暗黒都政がこれ以上続くのだけはまっぴらごめん、と若桑さんとわたしは、選挙カーに乗ってマイクをにぎった。彼女は自分で寸劇のシナリオを書き、扮装して「都庁の虎退治」を路上で演じた。選挙で走り回る仲間のためにさりげなくペットボトルの冷たいのみものを、袋一杯用意する心遣いのあるひとだった。
 熱血で純情で、義侠心に富んだひとだった。味方につければ百万倍の力になるひとだったのに……そのひとをとつぜん失った。その穴を埋めるものは、ない。

(うえの・ちづこ 東京大学教授 社会学)

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