言葉からセンスというギフト(力)をもらって

豊崎由美

〈アサッテの叔父や、彼が出くわす「チューリップ男」は、俳句の定律を守るようにきっちりと社会生活を送りながら、日常の小さな裂け目に、字余り・字足らずのごとく“アサッテの衝撃”を滑りこませる。定型を破壊し、意味を剥ぐ。叔父の愛する「チリパッハ」はロシア語でカメを意味するЧЕРЕПАХАではなく、そこから意味というカメが這い出たあとの「抜け殻」なのだ。言葉の意味を等価に翻訳することすら難しいのに、さあ、その「抜け殻」をどう訳せばいいか?〉
(「朝日新聞」二○○七年九月九日朝刊)
 これは鴻巣友季子さんが、諏訪哲史の芥川賞受賞作品『アサッテの人』を評した原稿の真ん中あたりからの引用です。鴻巣さんは、まず翻訳同業者の間で『アサッテの人』を英訳したらどうなるか、という話になった話題から筆を起こすことで、同作品中に数々登場する奇天烈な言葉を紹介。「『チリパッハ』ってなに?」と読者の関心をひくことに成功しています。つまり、つかみはOK。
 その後、簡潔にして不足のない粗筋紹介を経て右に引用した読解を披露していくわけですが、〈日常の小さな裂け目に、字余り・字足らずのごとく“アサッテの衝撃”を滑りこませる〉〈そこから意味というカメが這い出たあとの「抜け殻」〉といった表現が持つ独自性と“読み”の深さには、トヨザキ感服つかまつり候。残念かつ恥ずかしながら、わたしも含めブックレビューを本職とする人間で、ここに挙げた鴻巣さんの書評に見られるセンスを持ち合わせた人材は見当たりません。なぜなんでしょうか。〈人間はなにか心の収まりがつかないとき、精神に漠たる空白を感じたとき、気持ちが剥きだしになってスースーしたとき、そこに「寂しい」という語を絆創膏のようにあてて守ってきたんじゃないだろうか〉といった、“センスのたまもの”というべき文章がそこここに置かれたエッセイ集『やみくも』中にその答えの一端があります。
 柳澤元厚労相の「女性は産む機械」という発言における「機械」という言葉に〈微妙な誤訳を見つけたときのような、もやもやした気持ちになって〉しまう一篇で、鴻巣さんは有名なハードボイルド作品の定番とされている訳文への違和感を挙げ、
〈翻訳書では、丁寧と丁重の、わずかな隙間が読者をむず痒くさせるのだ。ほんの一字か二字で訳文は変わる〉という自らの翻訳観を明らかにしています。この、言葉に関して一字一句おろそかにしまいという強いこだわりが、鴻巣さんを名訳者にし、プロがシャッポを脱ぐ書評やエッセイを書かせるのではないでしょうか。
〈「これを訳しているのはわたしではない」なんてさらりと言える〉ような心境に憧れながら、ヴァージニア・ウルフの構文が入り組んでいる複雑な文体を日本語に置き換えるために〈「いま、つかみにいきます」「もうすぐつかめそうです」「つかみつつあります」「つかめました」〉と四苦八苦し、〈ああ、このわたしが訳しているのだ、いま、まさに訳しているのだ、という実感がいやというほどある〉と嘆く鴻巣さん。娘さんの保育園の連絡ノートに、雑誌などに書くエッセイと同じ気合いをこめた文章を書いてしまう鴻巣さん。言葉が大好きで、言葉を愛でまくり、だからこそ言葉からセンスというギフト(力)をもらえた鴻巣さん。
 そんな鴻巣さんの日常や仕事、人となりをかいま見ることができる、楽しい上にためになるこのエッセイ集の中には個人的に嬉しい発見もありました。これまで駄文で賛辞を連ねてきた鴻巣さんのセンス、それが決して鴻巣さん一人で得たものではないということです。明治生まれの父と大正生まれの母。鴻巣さんの操る言葉の幅の広さと奥行きの深さの源には、おそらくご両親の日常遣いの言葉がある。それがわかってちょっとドキドキしてしまったわたしは、かなり重症な鴻巣マニアというべきでありましょう。でも、この一冊を読めば、あなたもマニアの仲間入り間違いなし。鴻巣さんの訳書を全部読みたくなること請け合い。日本で三千人しか存在しないと言われている海外文学愛好家の裾野を広げるためにも、ぜひとも多くの読者にこのエッセイ集が届くことを祈ってやまないわたしなんであります。

(とよざき・ゆみ 書評家)

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