皇居をめぐる空間的想像力

五十嵐太郎

 最近、建築学科の卒業設計の講評会がイベント化し、毎年、数百点以上の作品を見る機会がある。通常の課題だと、与えられたテーマに従い、デザインを行うのだが、学生にとって卒業設計とは、自分で好きなように敷地や建物の条件などを含むテーマを決めることができる初の機会だ。しかし、学生の卒業設計を見るようになって、不思議に思っていたことがある。毎年、おそらく日本全国で一〇〇〇以上の作品が制作されているが、筆者の知るかぎり、皇居、あるいは皇居前広場を敷地に選んだものが存在しないことだ。もちろん、渋谷駅周辺や新宿、谷中や団地など、人気の場所はあって当然なのだが、この場所を知らない日本人がいないにもかかわらず、まったくないのも興味深い。原武史が現在の皇居前広場の雰囲気をよくあらわす藤森照信の言葉を紹介しているように、「何々をしてはいけないという打ち消しのマイナスガスが立ち込めている」。
 明快に禁止されているわけではないにもかかわらず、ここでは空間的な想像力を働かせてはいけないと思われているのだろう。いや、学生にとっては、そもそも知ってはいても、もはや存在しないと同じ場所なのかもしれない。過去の歴史も知らないのだろう。
 だが、戦後すぐの建築界はそうではなかった。一九五七年に丹下健三は、「僕はあれを文化センターにしたいんだ。公園あり、美術館あり、図書館ありで、今の自然の武蔵野情緒も生かしながら、国民のものにね」と発言している。そして皇居を含む山手線のエリアをまるごと大改造し、排気ガスが多くて環境が悪いから、皇居は引越してもらうアイデアを披露した。また一九五八年には、こうも述べている。「まず宮城を解放していただきたい。宮城のあの環境はなんとか残すこと、そうして宮城の周囲をもっと楽しいものにする。……ショッピングもあれば、ビジネス・センターもあるということにして、一応宮城は原形通り残す。けれどもあそこを横断できるようにしたい」と。宮城(皇居)を文化の中心とし、都民のレクリエーションの場とし、まわりに高層アパートを建てていく、というのだ。
 しかし、丹下の有名なプロジェクト「東京計画 1960」(一九六一年)では、皇居に手をつけていない。その後、建築家は多くの空想的な都市計画を発表したが、もはや皇居は想像力の外側になった。ゴジラも海から上陸し、ほとんど障害物がないにもかかわらず、わざわざ皇居を迂回して、新宿に向かう。一九六〇年代に前川國男が東京海上ビルを設計していたときは、皇居を見下ろすということで批判された。新宮殿の設計に関わった吉村順三は、デザインの変更を余儀なくされ、途中で降りてしまった。やはり、冷水を浴びせるマイナスガスである。皇居をめぐる空間的な想像力は封印されている。それゆえ、初めて原武史の『皇居前広場』を手にしたとき、かつてここに存在していたダイナミックな動きを詳しく知り、都市の使い方の歴史としても興味深く読んだ。現代の社会が失った空間の想像力を刺激する本である。
 政治学と建築学がクロスする原の「空間政治学」は、日本的な文化論にも接続するだろう。例えば、建築史の側から井上章一は、日本の全体主義はモニュメンタルな建築を求めなかったことや、戦時下にバラックが増えたが、皇居前広場は聖なる祝祭空間として維持されたことを指摘している。
 そもそも日本では、人々が集い、語りあうヨーロッパ的な広場が成立しないと言われる。モダニズムの建築家も広場を導入し、多くの失敗を経験した。二〇〇六年にヴェネチア・ビエンナーレ建築展を訪れたとき、各都市の広場を映像で紹介する展示があったのだが、ヨーロッパの都市がバロック的な広場や宮殿前の広場などをとりあげていたのに対し、東京は渋谷駅前のスクランブル交差点だった。立ち止まることが許されない、フローし続ける空間。なんとなく発生してしまった皇居前広場も、二十世紀の半ばにヨーロッパ的なモデルに近接したが、結局、まさに使われない日本的な広場の代表として定着している。

(いがらし・たろう 東北大学准教授)

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