サルトル『存在と無』について

佐藤真理人

 サルトルはあまりに有名であり、その名を知らない人を見つけるとしたら苦労することであろう。しかし『存在と無』が爆発的に売れたかつてのサルトルブームの時代においてすら、どれだけの人がその書を読破し、内容を理解したかとなると、まことに心許ない。書棚に「積ん読」で終わった人が大部分ではなかろうか。小編『実存主義とは何か』や読みやすい小説・戯曲、そして簡単な解説書の知識でサルトルを受け取って済ませていたのが実情であろう。
 しかしサルトルは第一級の哲学者であり、流行現象としての「実存主義」で片付けるわけにはいかない。彼の思想を根本から理解するためには主著『存在と無』と格闘しなければならないのだ。そこでは哲学上のもろもろの難問や重要問題が独特の執拗かつ精緻な現象学的態度で分析されている。その分析を追っていくことはかなり辛い作業である。
 私は学部・大学院を通じて、苦しみと楽しみが入り交じった奇妙な精神状態でこの厄介な書を読んでいた。ヤスパース、ハイデッガー、サルトル、マルセルら実存哲学の巨星たちと同時代に生きているというあの頃の気分は、わくわくするような、昂揚したものであった。そして『存在と無』の翻訳者、松浪信三郎先生の指導の下でサルトルを研究することができたということは、刺激的で充実した経験であったと今にして思う。それは私の青春時代の重要な一側面であった。
 サルトルは現代フランス思想の源流である。『存在と無』の知識なくしてはレヴィナスもデリダもアンリもドゥルーズも十分に理解することはできないであろう。彼らにとってサルトルは乗り越えられるべき共通の前提であり、その知識は不可欠である。たとえば、レヴィナスの『全体性と無限』を読む哲学演習の授業中、サルトルの名が出てこないある一節で、「このあたりは真っ向からサルトルを批判している内容ですよ」と言ったら、学生たちは「へえ?」という驚きの表情を見せた。サルトルは依然として現代哲学の中で生きているのである。ところが今では、現代思想に関心をもつ哲学専攻の学生にも、サルトルの思想に関する知識は共通の前提になっていないようだ。長い間『存在と無』が絶版になっていたり、学生には手の届かない高価な値段で売られていたということが、一つの大きな原因であると思われる。その意味で、このたび、ちくま学芸文庫の中に『存在と無』が入ったということは、非常に大きな文化的意義を有する出来事である。哲学を研究し、教える者として、私はその刊行を心から喜んでいる。
『存在と無』は読む者を興奮させる。それはわれわれの世界観・人生観を動揺させる。世界は出来上がった家のように完成しているのではない。われわれの人生は外から与えられるのではなく、われわれ自身で創造してゆくものなのだ。サルトルは安穏と、のんべんだらりと生きてゆくわれわれを叱咤し、われわれの心の中の自己欺瞞を暴露する。彼はわれわれが停止して事物的に存在することを許さない。その思想は過酷であると同時にわれわれを鼓舞するものである。なぜなら人間は、たえず過去から脱して未来に向かう自由な存在として、現在を生きているからである。そういう力動性と迫力がわれわれを興奮させるのである。最終的にサルトルをどう評価するにせよ、その興奮は貴重である。『存在と無』が文庫本として手近なものとなった今、特に若い人たちにその興奮を味わってもらいたいと思う。
 松浪訳『存在と無』は余人には真似のできない見事なものである。訳者の優れた日本語感覚がその訳文に一貫して反映している。けれども、今日的立場からの訳語の変更、表記の修正・統一等、改善の余地はまだある。今後版を重ねるうちに、そういう微調整的な検討がなされることによって、この名訳『存在と無』がよりよいものとなることを期待している。

(さとう・まりと 哲学)

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