ついに『カラキョー』を読んだぞ——あとがきのあとがき

清水義範

 世界文学の中の名作の読書手引きをしたり(その成果が『世界文学必勝法』という一冊になった)、世界文学史について思うことを書いたりする機会がこのところ多くて、我が読書遍歴を語ることがままあった。するとそこで、私は何度も次のことを告白しなければならなかったのである。
ドストエフスキーの作品をいろいろ読んでいるのだが、『カラマーゾフの兄弟』だけは未読である。私があれをいつか読むことはあるのだろうか。
 正直にそんなことを告白するのは、若い頃にいろいろ失敗したからである。ある小説のことが話題になって、実はそれを読んでいないのに若さ故の見栄で、つい「あれはいいですね」なんて言ってしまい、そのあと話を合わせるのに苦労したことが何度もあるのだ。
「そして、ラストシーンにはびっくりしたね」
「ええ、あれには驚きました」
 なんて言っては冷や汗をかいたものだ。恥ずかしい嘘を言ってるなあと心も痛んだ。  だから読んでないものは読んでないと、正直に言うことにしたのである。
 だが、『カラマーゾフの兄弟』は読んでなくちゃ話にならないほど世評の高い小説で、未読だと告白するたびに肩身の狭い思いがした。それを読んでなくて世界文学について語るのはおこがましいような気もした。
 ジャーン! ついにそのことに終止符が打たれたのだ。私はとうとう『カラマーゾフの兄弟』を読んだのである。大学生の頃から、あれは読まなくちゃと思っていたものを、六十歳を過ぎてやっと読んだのだ。やっと長年の借金を返したような気がしている。
 読んだのは、最近評判の光文社古典新訳文庫版の全五巻で、亀山郁夫訳のものである。
 さて、読んでみての感想はというと、『罪と罰』の三倍ものすごいな、である。だって『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフと同じくらい重々しくて激烈な人間が、兄弟になって三人出てくるんだもの。ついていけないような奇怪な人間の言動に巻き込まれ、頭がジーンとしびれてくるような異世界へつれていかれるのは快感であった。やはりドストエフスキーはとてつもなくて、あきれるほど面白いのだ。
 そして特にこの小説においては、ついに書かれなかった「第二の小説」の影がチラついて、この世にはない小説への予感に胸が震えるのであり、その分だけ印象が強烈になるのである。
 それにしても、思いがけないカラキョー(『カラマーゾフの兄弟』を若者はそう略す)ブームで、亀山郁夫訳の文庫が五巻合計で五十万部以上も売れているという事実には驚く。若者たちは小説に戻ってきたのだろうか。
 小林多喜二の『蟹工船』も、思いがけないことに今注目されているそうだ。あのプロレタリア文学が現代の若者に受け入れられるとは! ワーキング・プア世代の若者には、あの労働者の地獄が他人事ではないということらしい。
 しかし、それこそが文学の持っている力のまぎれもない証拠なのだ。高度経済成長だったりバブル景気だったりすれば、文学のほうに目が向きにくくもなる。ところが、社会が一変して、じわじわと生きにくくなれば、人は文学に心の救済を求めるのだ。いかに生きるべきかのみちしるべを、文学に求める。
 戦時下の若者は、世界文学や哲学書をびっくりするほど読んだときいている。自分の運命が暗いほうへ引きずられていく時、人は本を読みたくなるのだ。
 この先は、そういう時代なのかもしれない。文学は人間の文化遺産であり、人を導く灯火なのである。
 そしてそういう時代に、私はまた小説読みとして戻ってきた。楽しいことである。この分だと、私は絶対に読めないと思っていた『戦争と平和』まで読んでしまうかもしれないぞ。なんだかすごいことになってきた。 (しみず・よしのり 作家)

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