敬愛の情

大村彦次郎

 劇評家矢野誠一さんの履歴を辿ってみると、演劇青年の時代から始まって、寄席の業界に近づき、またそこから離れ、芸能評論ひと筋の道をやってこられた。この間、ずっと〈ヒラ評論家〉を通された。
 矢野さんほどの学識をもってすれば、これまでに大学の一つや二つから口がかかってきたはずだが、それを受けなかったところに矢野さんなりの筆一本に賭けた、それこそプロの面目がある。さまざまな雑文を書いて暮らしをしのいだが、一方で「都新聞藝能資料集成」といった、誰も手をつけない、調べのよくゆき届いた基礎的な労作も残した。
 師の戸板康二は七十七歳で逝ったが、正岡容五十三歳、安藤鶴夫六十歳の歿年を思えば、いまの矢野さんはこの世界ではかけがえのない現役の筆頭、そしてれっきとした長老、大通といっていい人なのである。いや、その筆歴の及ぶところは劇評界のみにとどまらない。

 いかなる評伝でも、その上がりのよさのおおよそは対象人物への筆者の思い入れや敬愛の情の深さによる。矢野さんは日頃、戸板さんの話をするのに、いまなお「先生」の敬称を使われる。矢野さんの篤実なお人柄の表われでもあるが、それにしても戸板さんはいいお弟子を持たれた。戸板さんの表芸である歌舞伎評論は同じ門下の渡辺保さんが受け継ぎ、その広汎なエッセイの部分は矢野さんが跡目相続をした、といってもいい。
 戸板さんのエッセイには人物論、人物誌の類が多く、それがまた面白いのだが、矢野さんの書かれるのもそうだ。たとえば「さらば、愛しき藝人たち」や「酒と博奕と喝采の日日」。落魄した芸人の生きかたを描いて、ありきたりの面白さの域を超えるものがある。
「戸板康二の歳月」は評伝ではあるが、いわゆる編年体的な叙述を避けている。戸板さんには名著「久保田万太郎」があり、矢野さんは師の評伝を書くにあたって、この書を意識しないわけにはいかなかったろう。むしろ万太郎のようにアクのつよい個性は誰が書いても面白くなる、と言われるのに対し、戸板さんのような山の手育ちのお坊っちゃんの、余りこの世に破綻のなかった人の評伝はかえってむずかしかった筈である。
 そこで評伝としては型破りなくらいの、自在な手法が随処にとられる。ときに演劇界の内幕に絡んだ矢野さん自身の体験が語られ、戦後の演劇史の一面がすけて見える。「ちょっといい話」の著者の評伝を書く限り、こうした方法でもとらないと、その微妙なニュアンスが伝わらない、と矢野さんは承知している。芸の見せどころだ。
 章立ての構成にもなかなかシャレた趣向を用いている。小文字のアルファベット順に、途中〈いんたあみっしょん〉を入れ、ラストは〈かあてんこうる〉で閉じる。中仕切りの〈いんたあみっしょん〉の章では、破天荒な役者人生を送った金子信雄が主役になって登場し、中年から劇作家、演出家として芝居の現場に足を踏み入れた戸板さんの、めずらしく高揚した当時の気分をきわ立たせるのである。
 とにかく評伝物のもつ硬さがないばかりか、矢野さんの座談調にくだけた、やや長めの饒舌体の文章には、人を酔わせる独特のリズムがある。こういってはさしつかえがあるかもしれないが、いま数ある劇評家の中で、矢野さんのような自前の文体を持っている人はそうザラにはいないのではないか。

 矢野さんが戸板さんの作品に初めてまみえたのは昭和二十五年、花森安治の暮しの手帖社の前身、衣裳研究所から出た「歌舞伎への招待」を新宿の紀伊國屋書店で入手したときである。
 その頃の紀伊國屋は新宿通りから小路をちょっと入ったつき当たりの、白いペンキ塗り木造二階建ての店舗だった。入口の脇には犬の首輪屋やブロマイド屋が並んでいた。もう遠い日の記憶だが、そこへ制服の肩かけカバンの矢野少年が現われ、終生の師と仰ぐようになった人の本に出合うのは、これまた〈ちょっといい話〉の一場景をホウフツさせるものではないだろうか。
(おおむら・ひこじろう 元編集者)

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