未読書コメント術

大浦康介

 知識人とはどんな人種かと訊かれて、すぐに思いつく答えはおそらく「本をたくさん読んでいる人」だろう。ここでいう知識人とは大学教師に(良くも悪くも)代表されるようなインテリのことである。インターネットに圧され気味であるとはいえ、書物がいまだ知識の最大の供給源であることは誰も疑わない。ところがである。この知識人と呼ばれる人々が本当のところどの程度本を読んでいるかはよく分からない。この点についてアンケート調査が行われたという話も聞かない。この種の質問を彼らにぶつけることはタブーであるらしい。
 したがって、知識人とはどんな人種かという質問には、より正確を期すなら、「本をたくさん読んでいるはずだと思われている人」と答えるべきである。ところで、この期待は彼らにとってはプレッシャーでもある。知識人たるもの、シェイクスピアも、トルストイも、フロイトも、当然読んでいてしかるべきだとされるからである(必読書のリストはむろん文化圏によって異なるだろう)。逆にいえば、古典や基本文献を読んでいないことは恥ずべきことだとされる。いうまでもなく「専門家」にたいする要求はもっと限定的だが、そのぶん厳しい。プルーストを読んでいない仏文学者も、『源氏物語』を繙いたことのない国文学者も論外である。
 そこで奇妙な会話が交わされることになる。知識人だって人間である。古典や名作の類でも、読んでいない本はあるにきまっている。しかし彼らはなかなか「読んでいない」とは言わない。沽券にかかわるからだ。じつは訊くほうも読んだかどうかをあからさまに問うようなことはしない。失礼だからである。かくして会話は、多くの場合、Aがある本についてコメントし、Bがあいまいに相槌を打つという形でなされる。AはそのあいまいさからBはじつは読んでいないのではないかと内心疑うが、それを口にすることはけっしてない。Bは内心ひやひやしながら、話題が早く変わることを念じている。ここでAは読んでいる人、Bは読んでいない人であるが、ABいずれも読んでいない人だという滑稽な状況もありえないわけではない。
 こうした窮境に陥らないためにも、知識人は本を読まなければならない。古典だけではない。話題の本にも、新刊書にも目を通さねばならない。しかし本を読む時間も速度も限られているから、彼らはあれも読んでいない、これも読まなければと、始終どこかで一種の罪悪感をかかえ込むことになる。知識人だけではない。出版関係者も、ライターも、いや「教養人」を自任する者なら誰でも、この種の「読書コンプレックス」と無縁ではないはずである。
 そういう人々にとって、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』は救いの書である。著者はそこで、モンテーニュ、ヴァレリー、バルザック、漱石、オスカー・ワイルドといった諸賢の知恵を引き合いに出しながら、「本は読んでいなくてもコメントできる」と説く。「読んでいることがかえって障害となることもある」とまで言う。そもそも「読んでいない」とはどういう状態をいうのか。「流し読み」や「飛ばし読み」は読書に入らないのか。逆に「完読」状態などというものがありうるのか……。著者は、こうした読書論的考察から始めて、最後は未読書について語るための具体的方法まで伝授する。
 詳細についてはこの本を読んでいただくとして、著者の大胆不敵なテーゼの出発点となっているのは、われわれはじつは普段からよく知りもしない本を話題にしたり、読んだつもりになったり、読んだふりをしたりしているという、「理想」とはかけ離れた読書の現実である。著者はそれを批判するのではなく、そこに潜む知恵を探り、手練手管を明らかにしようとするのである。そういえば冒頭の問いにはもうひとつの答えがあった。知識人とは「読んだふりのうまい人」でもある。
(おおうら・やすすけ 京都大学教授)

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