二〇〇七年五月八日、第二十三回太宰治賞の選考委員会が、三鷹市の文化施設「みたか井心亭」で開かれました。 選考委員四氏(高井有一、柴田翔、加藤典洋、小川洋子)による厳正な選考の結果、受賞作として選ばれたのは、瀬川深「mit Tuba」でした。 最終候補となった四作品を、選考委員はどう読んだのでしょうか。 四氏による選評です。
最終候補作を一通り読み終わった段階ですぐに、「mit Tuba」だ、と確信した。もちろんどの作品にもきらっと光る美点があり、隠しようのない欠点がある。ただ他の三作品が、欠点によって美点が飲み込まれてしまっていると感じられるのに比べ、「mit Tuba」だけは、文章のあちこちできらめく輝きが、最後まで色あせなかった。多少何かに引っ掛かっても、チューバの音が響いてくれば、それですべて許せる。そんな思いを抱かせてくれる小説だった。
何より、チューバと、それを吹く肉体と、音を描写する言葉が魅力的だ。生き生きとして無駄がなく、あふれるような喜びが伝わってくる。
私の肺は空気を満たし、私の内腔はまっすぐにチューバへと連なって天へと向いたベルまで一本の管となり、私の筋肉が、骨格が、皮膚が、丸ごと大気を音へと変えるのだ。
私はチューバを吹くだろう。この男のクラリネットがいくら歌っても、それを支える大地は必要だ。クラリネットが歌を歌うとき、私は横たわる黒土となるのだ。
チューバが歩き始めた。重く力強く、重低音の響きが時間と空間に楔を打ち、リズムを作り、テンポを守り、どこまでも広がる平野を描いた。
こうした数行でたちまち私は、チューバの響きに全身包まれてしまった。
一番心に残ったのは、アルバイト代をためて、主人公が生まれて初めて自分だけのチューバを手に入れる場面だ。まるで恋人に身を寄せるように、彼女は買ったばかりのチューバをそっと抱きしめる。金属の冷ややかさと自分の体温を交流させ、涙ぐむ。嬉しさのあまり、どんな歌を歌わせたらいいのか分からなくなった彼女の耳に、中学時代の先輩の声がよみがえる。……ま、まっすぐに息を出すの。……大きくなくて、い、い、いいんだよ……。
この先輩の存在感がまた印象深い。不恰好な楽器であるチューバの本質を説き、主人公の人生に決定的な影響を与える、という重要な役割を果たしながら、彼自身は表舞台に出てこようとはしない。どうか皆、僕のことなど忘れて下さい、とでもいうかのように、慎み深く退場してゆく。
瀬川さんは楽器も人も、区別なく同等に描ける人である。そのことを私は最も高く評価したい。
結局、「mit Tuba」の受賞を一番強く推されたのは柴田さんだった。おもしろいことに柴田さんが評価なさったのは、この小説がチューバを描くことに留まらず、楽器を通して人間のあり方にまで踏み込み、チューバをある象徴にまで昇華させている点であった。ところが、私が最も惹かれたのは全く逆の部分だった。なぜチューバを吹くのか、という自問を主人公が繰り返し、どうにかしてそこを分析しようと悪戦苦闘している場面はむしろ退屈で、そのような理屈から解放され、肉体と楽器がただぶつかり合う場面の方が、心に染みた。
同じ作品を推しながら、魅力を感じる部分が異なっているというのは、それだけこの小説の奥が深い証拠だろう。瀬川さんには自信を持って書き続けていってほしいと願っている。
次に評価が高かったのは「天の河原」だった。富久一さんは作品世界に読み手を引き込んでゆく力量を、十分に備えた人だと思った。登場人物たちの関係をどう明かしていったらいいか、ストーリーをどう動かしていったらいいか、的確につかんでいた。十四歳の少女鮎の大胆さ、危うい未熟さ、閉ざされた場所で生きてゆかなければならない人々の生活、それを束ねる責任を負っている親方の苦悩などが、鮮やかに描き出されていた。特に鮎が兄百日を思う、繊細な切実さは痛みを伴って伝わってきた。
ただ、九条の姫様とあかねの存在が、私には不自然に思えた。明らかに異質な存在であるはずの姫様が、あまりにも単純な人格者であるために、彼女の人間性が鮎や親方に比べて薄っぺらなものになってしまった。そのため、姫様とあかねが百日の悲劇の原因となってゆく後半の展開に無理があった。鮎とあかねが対決するシーンはどこか安物の時代劇じみて、残念だった。
少しストーリーを欲張りすぎたのかもしれない。鮎と百日、二人の関係にもう少し視点を集中させるとどんな小説になっただろう、などとつい想像してしまう。
「月がゆがんでる」はまず、登場人物たちの名前の付け方に違和感を覚えた。主人公が冴、ゲイバーの店名がムーンライトで、そこに出入りする少年が月、店員さんが光、光さんの好きな人が照。なぜこのように、不自然なほどすべてが丸くおさまるような名前の付け方をしたのか。小説の輪郭をそこに求めたのか。あるいは深い意味はなかったのか。いずれにしてもそんなところで安易な印象を与えるのは、いかにも損だ。
橙さんは名前につながりなど求めなくても、きちんと小説の枠組みを構築できる人だと思う。学校に居心地の悪さを感じている平凡な女子中学生、対照的に優秀な、しかしドロップアウトした兄、両親の離婚問題、その原因となった事件、そしてゲイの大人たちとの交流……という材料を適切に配置している。
しかし問題なのは、それらの材料が予定通りの役目しか果さなかったことにある。書き手が思い描いた輪郭に、すべてがおさまった。そこが惜しいところだった。書き手の予想を超えて思いがけない方向へ物事が進んでゆく時にこそ、いい小説は生まれるのではないだろうか。
「首輪」の中で最も共感できたのは、室生時が小説を書くことについて語る言葉だった。
……つまり物語というのは、白紙の上を文字で埋めていく自由な作業と思われることが多いようですが、本当は違うのです。逆に、ずっと不自由なことなのですよ。湧き出てくるもう一つの世界を書き留める必死の作業なのですから。
この小説にとってもう一つの世界とは、湧き出てくるものではなく、書き手によってあらかじめきれいに設計されデザインされたものでしかなかった。そのため、繰り返し使われる孤独という言葉も、人間の内からにじみ出てきたような体温を持たず、小説の設定によってもたらされた一つの記号になっている。なぜ主人公はあそこまで室生時にのめり込んでゆくのか。主人公の狂気の方が、室生時の神秘性をはるかに上まわっているのではないか。そこがもし、描かれていたら……とまたしても、勝手な想像をしてしまうのである。