無謀な企て?

色平哲郎

 雨ニモアテズ 風ニモアテズ/雪ニモ 夏ノ暑サニモアテズ/……/リッパナ家ノ 自分ノ部屋ニトジコモッテイテ/東ニ病人アレバ 医者ガ悪イトイイ/西ニ疲レタ母アレバ 養老院ニ行ケトイイ/南ニ死ニソウナ人アレバ 寿命ダトイイ/北ニケンカヤ訴訟ガアレバ ナガメテカカワラズ/日照リノトキハ 冷房ヲツケ/ミンナニ 勉強勉強トイワレ/叱ラレモセズ コワイモノモシラズ……
 詠ミ人シラズのこの詩をはじめて読んだとき、とても怖いと感じました、ズボシだったからです。日本の四十代から下の若い世代は、私だけでなく、ほとんどがこの詩にあるような人間ではないでしょうか? そんな「新人類」の一員である私にとって、憲法はとても遠い存在でした。そんなとき偶然手にした本にこんな文章が載っていたのです。
「国民主権と民主主義はこうして立憲主義の対立物となった」
 田村理さんによる『国家は僕らをまもらない』という本にあったこの文章、最初、意味がわかりませんでした。が、立憲主義という言葉がどうしても気になっていました。
 先日、連絡があって、田村さんの新著が出ることを伺いました。若者向けの新書、『僕らの憲法学——「使い方」教えます』です。自分の不勉強は高い棚にあげて、私は「田村さんと対談したい」とぶしつけに申し出ました。田村さんにこの「雨ニモアテズ」の詩をぶつけてみたかったからです。
 若い世代に属する憲法学者が、さらに若い日本の高校生の世代にいったいどう語りかけるというのか。高校生たちに憲法の内実を語るという、そんな大それた「無謀な企て」について、著者に直接伺ってみたかった。
「雨ニモアテズの新人類」の私にも、ちょっと理解しがたい「新々人類」の高校生たちです。はたして通じるのでしょうか?
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 僕は今、高校二年生で一七歳。あと三年で参政権を持つ。
 この本の著者、田村理氏は、憲法は国民が公権力を縛るためのもの、という現代の立憲主義の大原則を示した上で、憲法を国民と公権力が向き合って対峙した状態、つまり「緊迫した攻防」のためのルールであると述べている。そして田村氏はこれをサッカーにたとえ、両者の緊迫した試合の必要性を訴えている。もし「緊迫した攻防」がなくなり、国民と公権力が同じ方向を向いてしまうと、そこに試合は成立しない。それは、国民と公権力との「サッカーごっこ」であり、国民が公権力に対峙してそれを制限するどころか、監視することもままならずにじゃれるだけになってしまう。
 僕はサッカーの試合を見るのが好きだ。でも両チームが同じ方向を向いているような試合は面白くもないし見たくもない。もし僕がその試合の観衆であるならば、持ち前の大声を上げて自分の意志を示すだろう。立憲主義も同じだ。この場合、国民はフィールド上でプレイヤーとして直接的に権力と対峙しつつも、同時に広い視野を持つ必要があるのではないかと僕は思う。だから僕たちは、同時にその試合の観衆でなくてはならない。「当事者としての観衆」として、僕たちは公権力に対して「レッドカード」を要求することができるのか——。
 僕は当事者のひとりとして、友人たちとこの「意志」を共有したい。僕たちは今問われている。ただ友人たちにとって自分が「自分」であるばかりでなく、ひとつの主体的な「意志」を持つとして「個」としての「自分」になれるかどうか。
 そんな将来のことを考える。その最初のステップのよき踏み台を僕はここに見つけた。僕はここから広い視野を持てるようになりたいと思う。
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 高校生からの手紙です。
 下流どころか、格差をこえた「貧困」が若者たちのあいだにひろがっている国内状況ですが、最後の歯止めである筈の憲法に頼らなければならなくなったこと自体、大問題です。
 フツーの若者たちにこそ、労働基準法の内実をきちんと語りかけ、伝えておく必要があります。
 そして憲法を読み解き、市民としての権利、加えて市民としての責任をも考え直していただく必要があります。「憲法の使い方」を指南するこの本に、今、大きな期待が集まる所以(ゆえん)でしょう。

(いろひら・てつろう 佐久総合病院内科医)

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