教科書の文学を読みなおそう

島内景二

 本は、どこで読むのが、一番楽しいのか。そして、どこが一番、本を読むのに落ち着かない場所なのか。私の場合、最も居心地のよい読書スポットは、ずっと「寝床の中」だった。最も苦手な場所は、「電車の中」である。
 集中して本を読む性格なので、電車の中でも、のめりこんでしまう。すると、下りる駅を乗り過ごす。また、こみあげる笑いや涙を我慢できずに、困ったりする。
 ところで、最も苦手な読書空間として「学校の教室」と答える人たちがいる。私は理工系大学の教師として、文学(古典から現代まで)を教えているが、教室で物語や小説を勉強するのは好きではないと断言する学生がかなりいる。
「私は、分析すること自体が嫌いです。本や芸術は、理屈でわかるものではなく、心で感じるものです。私は、分析しない主義です」という意見は、まだマシなほうである。
 若者に人気のある長編アニメの話型(ストーリー)、人物造型(キャラクター)、素材(モチーフ)、主題(テーマ)、場面設定(シチュエーション)などを丁寧に講義する。そうしたら、終了後に教卓まで、勢い込んでやって来る学生がいる。 「僕は、この作品を最高傑作だと確信しています。でも今の先生の話では、このアニメの大部分はよくあるというか、陳腐なパターンであり、ごく一部にしか新機軸がないという評価でしたね。自分の実感と違っているので、とても納得できません」などと反論するためにである。
 むろん、「自分一人で読んでいては気づかない解説だったので、新鮮な驚きの連続でした。こんなに興奮した講義は、初めてです」と励ましてくれる学生も、たまにはいる。
 そんな彼らと接しているうちに、文学の可能性を信じる教員と、文学に対して懐疑的な学生(生徒)とが渡り合う講義スタイルの小説、あるいは講義スタイルの評論を書きたいと願うようになった。テーマは、古典や近代小説を代表し、中学や高校の教科書の定番となっている名作をめぐって、である。
 小説は永遠に書けそうにないが、評論をこのたび世に問うことができた。題して、『教科書の文学を読みなおす』。この本を書きながら私の心の中を去来していたのは、「中学や高校の国語の時間でなければ受けられない、素晴らしい授業がある。その時に教室で、文学と本当の出会いを体験できれば、大学生になってから、『一人で読んだら楽しい小説が、どうして教科書で読むと急につまらなくなるんですか』などと質問しなくなるのではないか」という思いである。
 小・中・高の国語の時間に、私を教えてくれた先生方のお顔を、何人も懐かしく思い出した。A先生、H先生、N先生。ある先生は、「どんなに面白い感想でも、君一人だけの解釈であれば、それは思い込みに過ぎない」ということを、厳しく教えてくれた。
 教室には、たくさんのクラスメートがいる。集団の読書である「教科書読み」によって、初めて見えてくる文学の本質がある。それは、自宅での孤独な読書だけでは見つけられない、文学の宝物だ。本書が、教室で学生に話しかけるスタイルを採用したのは、「教科書読み」や「教室読み」の醍醐味を読者の皆さんに体験してもらいたかったからである。
 本書でのもう一つの主張は、一八六八年(明治元年)を境として、「古文」と「現代文」を分断してしまう高校教育への異議申し立てである。古文の授業が、品詞分解と助動詞の活用形の勉強で終わるのは、何とももったいない。古典として生き続けてきた生命力を、近代小説の名作と響き合わせ照らし合わせたい。古文と現代文の壁を取り払ったら、どんなに「文学」の風通しがよくなることだろう。
「教科書」も「文学」も、古典も近代小説も、みんな素晴らしい。文学とは何か。学校の教科書で文学を学ぶ価値は、どこにあるのか。本書を書くことで、私なりの解答を出すことができたという手応えを感じている。その充実感をもって、本書を読書界へと送り出したい。
(しまうち・けいじ 電気通信大学教授)

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