ヴァレリーの息づかい/恒川邦夫
長い間ポール・ヴァレリーは誤読されていると思ってきた。
「文学」を棄て、「哲学」も唾棄すべき「曖昧なもの」、「不純なもの」として斥けてきたヴァレリーは、生業も、二十代の後半に陸軍省の小役人として数年勤めたあとは、身体の不自由な通信社の元重役の私設秘書として、毎日数時間ほど働くだけで、いわゆる正業に就くことなく、老年期のとばくち(五十歳)までやってきた。思春期の失敗に懲りて、エロスも封印したまま、二男一女の平凡な家庭の父親であった。そこまでは、若き日の自分の選択の自然の帰結であり、後に取り沙汰されるような自己神話化というには当たらない。後からやってきた者たちが〈ヴァレリー=テスト氏〉像に跪拝したとしても、彼の罪ではない。〈神話化〉したのは、ブルトンであり、サン=ジョン・ペルスである。
そして反転が起こる。人生の最後の四半世紀間におけるヴァレリーの活躍ほどめざましいものはない。時代(一九二〇―一九四五)もまた、前の大戦の後遺症が癒えないまま、ファシズムの勃興と共に、新たな暗雲が湧き起り、次の大戦へ突入するめまぐるしいものであった。ヴァレリーはこの間に、詩人として復活し、職業作家となり、アカデミー・フランセーズの会員となり、そして、私生活では、エロスが解禁され、〈女たち〉が顔を出すようになった。〈大型新人〉の登場として、お金と閑をもてあましたサロンの女主人たちのアイドルとなり、講演や原稿の依頼がひきもきらず、各界の名士と交わって、席が温まるいとまもないほどであった。かくして前半生の〈ヴァレリー=テスト氏〉像は完全にくつがえされたが、果たして、それはどのようにヴァレリーの本質を裏切っているというのであろうか? 仮にこの時期にものした夥しい分量の詩・散文・劇を「作品」と呼ぶとすれば、果たして、「作品」は前半生の「反作品」(『カイエ』を中核とした未定稿・草稿類)を裏切っているであろうか?
死後六十五年の歳月を経た今日、ヴァレリーの研究家たちは、「反作品」が質量ともに、「作品」を凌駕することを知っている。しかしそれは単純な優劣の問題ではない。「反作品」が一種の乱反射であり、光の散乱であるように思われるのに対して、「作品」は一点に集められた光の収斂であり、時に、ダイアモンドの輝きのようなまぶしさを感じさせることがある。しかしヴァレリーに限っていえば、何かの主題に収斂した光の美しさにだけ目を奪われていると、ある種の〈通俗性〉へ誘われていくような錯覚にとらわれるであろう。そうした錯覚から目を覚ましてくれるのが、「反作品」の散乱する光である。その光がヴァレリー本来の前人未到の〈精神の冒険〉へ意識を呼び戻してくれるのである。
冒頭に記した「誤読」とはそのことである。突如夜空に現れた巨大な彗星のように登場したヴァレリーの受容は、当然のなりゆきとして、その「作品」の受容をもって始まった。しかしかつてベルクソンが「ヴァレリーが試みたことは、試みられてしかるべきであった」と評したように、「作品」の下支えになっている巨大な氷塊ともいうべき精神の営みの軌跡(「反作品」)を捨象して、ヴァレリーの「作品」の真の射程を理解することはできない。言い換えれば、精神の運動が終息したもの(「作品」)に、精神の運動を取り戻させるのが「反作品」の役割であり、多忙な後半生、世に顕現した〈テスト氏〉の時代にも、その営みは途絶えることがなかった。
数年前にポルトガルの古い大学町コインブラで、フランス人のヴァレリアンとその友人のイラン人が月に一、二回のペースで進めているという読書会に参加したことがある。小雨の降る一夕、古ぼけた共同研究室で、プレイヤード版『カイエ』の第二巻に収録されている「テータ(神をめぐる考察)」という標目の中の一節を声に出して読みながら、ヴァレリアンが洩らす哄笑、憤慨、感嘆、皮肉に耳を傾けていると、断章に命が通い、考えるヴァレリーの息づかいが眼前に髣髴とするようである。筆者が構想・編纂した『ヴァレリー集成』(全六巻)がめざすところもその余のことではない。
(つねかわ・くにお 一橋大学名誉教授)
『ヴァレリー集成Ⅰ(全6巻)』 ※2/12発売
恒川邦夫 編訳
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