特集 ちくま学芸文庫創刊20周年 綴じが外れるほどにくりかえし開いた本/鷲田清一
学術系の文庫本についていえば、わたしにはそれぞれの書肆にきわだって愛着のある一冊がある。講談社学術文庫なら柳田國男の『明治大正史 世相篇』であり、岩波文庫だと『オーウェル評論集』であり、角川文庫ならアランの『精神と情熱に関する八十一章』といったところだ。他社のはなしが先になってしまったが、ちくま学芸文庫はというと、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』がそれにあたる。
じつをいえば、わたしがはじめて繙いたオルテガの著作は、主著とだれもが認める『大衆の反逆』ではない。卒業論文、修士論文で、それぞれ〈他者〉、〈世界〉という大きな主題をとりあげたのだが、論述したのは、フッサールの、遺稿もふくめた現象学のテクストの事細かな分析だった。薄暗い地下室にいるかのような、じめじめした文献分析にちょっと気が塞ぐところがあり、博士課程に進学したあとは、しばらくウィリアム・ジェイムズとオルテガの著作に「浮気」をした。
建物の骨組みばかり問題にし、それも釘一本の位置すらおろそかにしようとしないフッサールの議論とはうってかわって、かれらの書き物には、ジェイムズ自身のことばでいえば「いたるところに出入口がある」家のようなおおらかさがあった。世界を、そして歴史を、まずはどう大づかみするかについて、とても風通しのよい語り口で述べられていた。
オルテガについていえば、わたしはスペイン語ができなかったので、まずEl hombre y la genteの邦訳『個人と社会――《人と人びと》について』を読み、ついで当時まだ翻訳のなかったUnas lecciones de metafsica(形而上学講義)を英語版で熟読し、ついにオルテガの世界にはまり込んだ。
『大衆の反逆』と記された表紙は、読まずとも内容がわかるかのような印象を与えてしまう。きっと社会のマス化現象を論じているにちがいない、と。わたし自身がそうだった。だからオルテガの著作を読みはじめてからずいぶん後になってはじめて開いた本なのである。が、読んですぐ、すぐれた哲学の著作にかならずある「殺し文句」にふれることになる。歌舞伎の見得のようなそれは、こう謳っていた――
「哲学は自己自身の存在を疑うところから始まり、その生命は自己自身と戦い、自己の生命をすり減らす度合いにかかっているのであれば、どうして哲学が自分のことを真剣にとりあげてくれるよう要求することがあろうか」
こうなるともう魂ごともっていかれたようなものである。最後まで夢中で読んだ。
ちくま学芸文庫版が出てからは、こちらに乗り換えて、ついに綴じが緩むところまでくりかえし開いている。オルテガのいう「大衆の反逆」は、今日の、といっても一九三〇年時点のことだが、官僚と学者という、エリートであるはずの人びとに象徴的にみられる精神の大衆化のことをさしている。いいかえると、「自分を超え、自分に優った一つの規範に注目し、自らすすんでそれに奉仕するというやむにやまれぬ必然性を内にもっている」、そういう「優れた人間」の消失、つまりは「社会的な生における知的凡庸さの支配」を憂えたのである。そういう意味で、現代を「他のあらゆる時代に優り自己自身に劣る時代」だともいっている。
思い当たるところがありすぎて、びくっとするというより怖ろしくなる本で、世の中になにか事があるたびに開いていると、このところその頻度が上がる一方である。このたびの大震災と原発事故への対応のなかで、かつて過剰であったとおもわれる専門家への信頼が、一転して過剰な不信へと逆ぶれしている。この二つの過度をオルテガは口を酸っぱくして戒めていた。
つづいてこんどは、反原発デモの盛り上がり、そして島々の領有権をめぐるナショナリズムの衝突。前者については「国家による社会的自発性の吸収」への断固たる抵抗の声が、後者については「彼〔凡庸人〕はあらゆることに介入し、自分の凡俗な意見を、なんの配慮も内省も手続きも遠慮もなしに……強行しようとする」という指摘が、耳元で響きわたる。
(わしだ・きよかず 哲学者)
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