文明の意匠としての哲学/佐藤正英
近代日本は文明という、在来の土俗の神や仏とは異なる外部との出遇いから始まった。文明は、欧米諸国で体現されていて、財貨および武力としての剥き出しの力と、異教であるギリシャの宗教およびキリスト教と、市民社会および国家などの因子から構成されていた。
濵田恂子『入門 近代日本思想史』は、文明に対応すべく腐心した近代日本の哲学者の営為をめぐって、いきとどいた鳥瞰図を提供している。
私たちがよく生きようとして、事物・事象に出逢い、老い、死ぬ在りようを、総体として対象化し、言辞によって表現する営為を哲学とよぶとすれば、哲学は、ひととしての私たち自身の営為であって、文明に固有な様態の営為ではない。
だが、近代日本において、哲学とは、文明を介してはじめて接したところの、欧米諸国の学問であった。福沢諭吉は、我が国には文明の因子である「数理学(=物理学)」と独立自尊とが欠けていると説いた。欧米諸国の哲学は、ギリシャの宗教の神やキリスト教の神に根差しているのではなく、自然科学および自立する個を前提とした学問として捉えられたのである。
近代日本において哲学がまがりなりにも欧米諸国の学問に類するかたちをとったのは、西田幾多郎『善の研究』においてであった。西田は参禅した自身の体験に根差す純粋経験から出立した。物我一体から、統一的所在としての実在および統一力としての個が分化発展する。「善」とは、事物・事象とのより深く、緊密な統一の実現であり、統一力の十分な顕現であると説いたのである。
京都大学哲学科教授に就任した西田は、同時代の欧米哲学の課題に挑み、行為的直観および反省から成る自覚の形式によって、価値と存在、意味と事実を統合し、体系化を図る論考を手はじめに、数多くの「悪戦苦闘のドッキュメント」を公表した。
西田の周辺からは、国家と個の関係をめぐって種の論理を説いた田邊元や、『パスカルに於ける人間の研究』から唯物弁証法の受容を経て未完の『構想力の論理』に至る三木清、『ライプニッツ』の下村寅太郎、『時と永遠』の宗教哲学者波多野精一、『偶然性の問題』の実存哲学者九鬼周造らの俊秀が輩出した。
『プラトン』全四巻を述作した田中美知太郎は、西田の論考に代表される京都学派の哲学を「雑然たる読書の刺激によって生じた感想や思いつき」であると酷評した。しかし、ギリシャ哲学のテキストの精緻な読解もなお文明の意匠の一つにとどまっている。ロゴスやイデアといった翻訳語もまた、哲学の名で、土俗である私たちの神や仏との格闘が回避されたままである憾みを残しているからである。
和辻哲郎は、ディレッタントと評されていたが、翻訳語を捨て、在来の儒学の言辞である「倫理」から出立して、間柄の哲学の構築をはかった。だが、敗戦によって、究極の間柄共同体たるべき国家の理念は頓挫を余儀なくされた。
欧米哲学が根差しているギリシャの宗教の神やキリスト教の神が対象化されないかぎり、近代日本の哲学は、精粗の差こそあれ、文明の意匠である域を出ないであろう。文明に回収され尽せない私たち自身の在りように立ち戻る以外に、欧米哲学の根源に触れ、欧米哲学を対象化する途はない。
だが、マルクス主義や自由主義に対する弾圧に端的に示されているように、国家あるいは天皇を対象化する営為は厳しく抑圧されていた。そのこともあって、土俗の神や仏は、哲学にとって取りあげるに値しない所産であると見做されていた。弾圧への反動から、敗戦後も、土俗の神や仏は、イデオロギー批判の対象になりこそすれ、哲学の出立点としては顧みられないままにとどまっている。
(さとう・まさひで 東京大学名誉教授)
『入門 近代日本思想史』 詳細
濱田恂子著
ご注文方法はコチラ
トップに戻る
バックナンバー
- 第638号24年5月号
- 第637号24年4月号
- 第636号24年3月号
- 第635号24年2月号
- 第634号24年1月号
- 第633号23年12月号
- 第632号23年11月号
- 第631号23年10月号
- 第630号23年9月号
- 第629号23年8月号
- 第628号23年7月号
- 第627号23年6月号
- 第626号23年5月号
- 第625号23年4月号
- 第624号23年3月号
- 第623号23年2月号
- 第622号23年1月号
- 第621号22年12月号
- 第620号22年11月号
- 第619号22年10月号
- 第618号22年9月号
- 第617号22年8月号
- 第616号22年7月号
- 第615号22年6月号
- 第614号22年5月号
- 第613号22年4月号
- 第612号22年3月号
- 第611号22年2月号
- 第610号22年1月号
- 第609号21年12月号
- 第608号21年11月号
- 第607号21年10月号
- 第606号21年9月号
- 第605号21年8月号
- 第604号21年7月号
- 第603号21年6月号
- 第602号21年5月号
- 第601号21年4月号
- 第600号21年3月号
- 第599号21年2月号
- 第598号21年1月号
- 第597号20年12月号
- 第596号20年11月号
- 第595号20年10月号
- 第594号20年9月号
- 第593号20年8月号
- 第592号20年7月号
- 第591号20年6月号
- 第590号20年5月号
- 第589号20年4月号
- 第588号20年3月号
- 第587号20年2月号
- 第586号20年1月号
- 第585号19年12月号
- 第584号19年11月号
- 第583号19年10月号
- 第582号19年9月号
- 第581号19年8月号
- 第580号19年7月号
- 第579号19年6月号
- 第578号19年5月号
- 第577号19年4月号
- 第576号19年3月号
- 第575号19年2月号
- 第574号19年1月号
- 第573号18年12月号
- 第572号18年11月号
- 第571号18年10月号
- 第570号18年9月号
- 第569号18年8月号
- 第568号18年7月号
- 第567号18年6月号
- 第566号18年5月号
- 第565号18年4月号
- 第564号18年3月号
- 第564号18年3月号
- 第563号18年2月号
- 第562号18年1月号
- 第561号17年12月号
- 第560号17年11月号
- 第559号17年10月号
- 第558号17年9月号
- 第557号17年8月号
- 第556号17年7月号
- 第555号17年6月号
- 第554号17年5月号
- 第553号17年4月号
- 第552号17年3月号
- 第551号17年2月号
- 第550号17年1月号
- 第549号16年12月号
- 第548号16年11月号
- 第547号16年10月号
- 第582号19年9月号
- 第546号16年9月号
- 第545号16年8月号
- 第544号16年7月号
- 第543号16年6月号
- 第543号16年6月号
- 第542号16年5月号
- 第541号16年4月号
- 第540号16年3月号
- 第539号16年2月号
- 第538号16年1月号
- 第537号15年12月号
- 第536号15年11月号
- 第535号15年10月号
- 第534号15年9月号
- 第533号15年8月号
- 2019年8月号 No.581 目次はこちら
- 第532号15年7月号
- 第565号18年4月号
- 第531号15年6月号
- 第530号15年5月号
- 第529号15年4月号
- 第528号15年3月号
- 第527号15年2月号
- 第526号15年1月号
- 第525号14年12月号
- 第524号 14年11月号
- 第523号14年10月号
- 第522号14年9月号
- 第521号14年8月号
- 第520号14年7月号
- 第519号14年6月号
- 第518号14年5月号
- 第517号14年4月号
- 第516号14年3月号
- 第515号14年2月号
- 第514号14年1月号
- 第513号13年12月号
- 第512号13年11月号
- 第511号13年10月号
- 第510号13年9月号
- 第509号13年8月号
- 第509号13年8月号目次
- 第508号13年7月号
- 第507号13年6月号
- 第506号13年5月号
- 第505号13年4月号
- 第504号13年3月号
- 第503号13年2月号
- 第502号13年1月号
- 第501号12年12月号
- 第500号12年11月号
- 第499号12年10月号
- 第498号12年9月号
- 第497号12年8月号
- 第496号12年7月号
- 第543号16年6月号
- 第495号12年6月号
- 第494号12年5月号
- 第493号12年4月号
- 第492号12年3月号
- 第595号20年10月号
- 第491号12年2月号
- 第490号12年1月号
- 第489号11年12月号
- 第488号11年11月号
- 第487号11年10月号
- 第486号11年9月号
- 第485号11年8月号
- 第484号11年7月号
- 第483号11年6月号
- 第482号11年5月号
- 第480号11年4月号
- 第479号11年3月号
- 第478号11年2月号
- 第478号11年1月号
- 第477号10年12月号
- 第476号10年11月号
- 第475号10年10月号
- 第474号10年9月号
- 第473号10年8月号
- 第472号10年7月号
- 第471号10年6月号
- 第470号10年5月号
- 第469号10年4月号
- 第468号10年3月号
- 第467号10年2月号
- 第466号10年1月号
- 第465号09年12月号
- 第464号09年11月号
- 第463号09年10月号
- 第462号09年9月号
- 第461号09年8月号
- 第460号09年7月号
- 第459号09年6月号
- 第512号13年12月号
- 第456号09年3月号
- 第458号09年5月号
- 第455号09年2月号
- 第457号09年4月号
- 第548号16年11月号
- 第548号16年11月号
- 第454号09年1月号
- 第520号14年7月号
- 対談
- 第509号13年6月号
- 第524号14年11月号
- 第548号16年11月号
- 第565号18年4月号
以前のPRちくま
「ちくま」購読料は1年分1,100円(税込・送料込)です。複数年のお申し込みも最長5年まで承ります。 ご希望の方は、下記のボタンを押すと表示される入力フォームにてお名前とご住所を送信して下さい。見本誌と申込用紙(郵便振替)を送らせていただきます。
-
受付時間 月〜金 9時15分〜17時15分
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3