ムーミンが好き

キャラクターごとにムーミン谷の住人たちを紹介し、その魅力の源泉をさぐる『ムーミン谷のひみつ』。その刊行にあたり、自他共に認めるムーミン・ファンのお二人が、ムーミンをテーマに語りつくします。

冨原 眞弓(翻訳家/聖心女子大学哲学科教授)、堀江 敏幸(作家/早稲田大学教授)

日本でのムーミンのイメージ——
堀江 ムーミン・シリーズというのは、出会った年齢によってだいぶイメージが違うんじゃないかと思うんです。僕は一九六四年生まれで、ちょうどテレビアニメの第一期に重なっているんですね。ほぼ全編観ていて、強い印象が残っています。第二期のアニメはちょうど留学と重なって見逃しましたが、その間に、あらためて原作を読んだりしまして、やはりアニメは違うものだ、ということがわかってきた。でも最初の頃の記憶を消すのに、けっこう苦労しました。『ムーミン谷のひみつ』を読ませていただいて、そうか、ちゃんと大人になって、分別をわきまえてから読むと、きちんと最初からメッセージを受け取れるんだなあと、つくづく思いましたね。
冨原 たしかに最初にどういうメディアで接するかで、ムーミンのイメージが決定づけられる一面はあるでしょう。最初に新聞連載でコミックスを読んで、あとで子どもの本もあるんだと知った人もいれば、第一期アニメで知った人、第二期アニメで知った人、そして私のように大人になって初めて読んだ人、あるいはキャラクターグッズだけでイメージしている人もいる。ただそれを、どれがいいとかどれが二番煎じだとか言いたくないなという気持ちがあって。
堀江 コミックスはイメージがだいぶ違っていて、非常に切れ味がいいというか、ある種の煮え切れなさがない。文章と挿絵になると、もう少し柔らかく深くなってくる。しかし、どちらもトーベ・ヤンソンという人の中から出てきたものですからね。
冨原 コミックスでは、ムーミンは孤児だったという設定で始まります。パパもママもいなくて、子どもの頃に迷子になったままずっと一人で住んでいたと。ヤンソンは大人の読者を意識したムーミン世界を作りたかったんだと思います。だからムーミンもスニフもパパもママも、スナフキンでさえも、性格が微妙に大人向けで、風刺やアイロニーになじみやすくなっている。
堀江 コミックスじゃなくても、ムーミンって、どこか孤児のような感じがしますね。というより、ムーミン谷の人々はみんな孤児で、孤児が集まっているようなイメージがありました。第一期のアニメの頃には、孤児を主人公にした話が多かったんですよ。「あしたのジョー」とか「タイガーマスク」とか。みんな仮のお父さんお母さんお兄さんを得て成長していくんです。ヤンソンの世界とは別に、日本がその頃受け入れようとしていた何かと、ムーミン谷がぴったりはまっちゃったのかもしれませんね、後から考えると。僕がムーミンに一種の寂しさを感じていたのは、北欧の空とか気候とか自然だけじゃなくて、そういう日本のある時代の根ぐらさもあったように思います。ムーミン谷の人たちは、家族を作っているのにどこか寂しそうなんですよ。いつか散って行っちゃうんだろうなという感じ。それが最初から約束されているようで、恐かった記憶がありますね。
冨原 たしかに第一期アニメはその頃の日本の精神性みたいなのを反映しているのかもしれませんね。でもそれを引き出したのはたぶん、原作にある、みんなひとり、という感覚だと思います。堀江さんがいみじくもおっしゃったように、あれは孤独がテーマなんです。あの家族は突きつめればヤンソンの分身で、パパもムーミントロールもミイも、みんなで一人、ほぼ一人家族です。ママはべつとしても。他の生きものも家族構成があいまいですよね。スノークも兄と妹だし、フィリフヨンカもヘムルも一人でしょう。家族持ちはほかにいない。なのに日本ではムーミンは、たぶんアニメのイメージもあって、ムーミンたちはすごく幸せな家族だというふうに評価されている。それはちょっと違うんじゃないかって。
——でも堀江さんは、アニメからちゃんと孤独をかぎ取られたわけですよね。
堀江 孤独そのものは見えないんですけど、なにかとっても恐い感じがあったんです。
冨原 やっぱり子どもは侮っちゃいけないということですね(笑)。

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