いつまでも懐かしい人/中野朗

 今年の「山口瞳の会」東京支部新年会は豪勢だった。あの「神田川」で、志ん生の大津絵を聞こうというのだ。勿論、これは昭和四十二年に、山口瞳が個人的に大津絵「冬の夜」を聞く会を催した「故事」に倣ったものである。当日は志ん生門下の隅田川馬石師匠の落語二席を聞き(これもすばらしかった)、その後、高座に「冬の夜に風が吹く」の山口瞳の書を掲げ、全盛期のころの志ん生の「冬の夜」を聞いた。山口瞳が聞いた同じ場所、同じ広間で、レコードとはいえ大津絵を聞くことができ、感慨を禁じえなかった。志ん生との交渉に携わった矢野誠一氏にも出席していただき、当時の思い出を伺った。
 その山口瞳が亡くなってやがて十四年になるが、山口人気はいまだ衰えていない。嵐山光三郎氏は十三回忌を兼ねた「偲ぶ会」で、没後もなお作品が読み継がれるのは司馬太郎や池波正太郎などの「国民作家」だけだと思っていたが、山口瞳もそのひとりだと話された。そのとき嵐山氏は『礼儀作法入門』を念頭にされていたと思うが、復刊本ばかりではなく生前の単行本未収録作品集、つまり「新刊」もよく読まれているのである。新たに編集し直されたものまで含めると、没後に刊行されたものは四十冊にもなる。山口瞳は現役の作家なのだ。
 なぜ、これほど山口瞳が読まれるのだろう。理由はいくつも挙げられるだろうが、ひとつには現在の社会環境と、『江分利満氏の優雅な生活』執筆当時の時代背景とが似ている点にあると思う。秋山駿氏は同書の文庫版解説に、昭和三十年代の高度経済成長により庶民の生活スタイルが一変し、そこから生じた不安や戸惑いに江分利満氏が正確な観察と的確な批評で応えてくれた、と指摘している。
 現代もまた、ITシステムの急速な普及と進化が私たちの生活を深く浸潤している。若年層がゲーム感覚でパソコンに習熟していく一方で、中高年の大半は浮遊感に苛まれている(私もそのひとり)。そもそもマニュアルというものが理解できない。やむなく子供に阿り、教えを乞う始末だ。それを繰り返しているうちに、次第に卑屈になっていく。
 親の威厳などというものは霧のように消えてしまった。そうした光景が、今ではさまざまなところで現出しているのではないだろうか。そんなときに山口瞳を読むと元気が出てくるのである。若年層もまた、山口瞳に失われた父性を見出しているのかもしれない。
 とりたてて山口瞳が癒しの作品を書いたわけではない。確かに頑固オヤジの面目躍如といった作品は書いた。描かれているのは日常のごく普通の出来事ばかりで、深遠で難しい話はほとんどないといってよいだろう。それなのに、読むとどうして元気が出てくるのか。それを正確に説明するのは難しい。新たにもう一冊の山口瞳論が必要になってしまう。ただ、山口瞳は大所高所の抽象的な議論に陥らず、生活者の視点を最後まで手放さなかったということだけは言える。これはけしてやさしいことではない。
 そんな山口瞳とはどんなひとなの、という疑問に応える恰好の本が刊行される。小玉武氏の『「係長」山口瞳の処世術』である。小玉氏は昭和三十七年にサントリー宣伝部に入社したが、直属の上司が山口瞳だった。新人が上司を見る目は峻烈であるが正確なものだ。私はおそるおそる(?)頁を繰ったが、小玉氏は山口係長を、管理ということの意味をよく分かっていて、人心の把握がとてもうまかったと書いている。そして、一度もられたことがないという。小玉さん自身が優秀な新人だったのだろうが、ちょっと意外な気がした。なんといっても山口瞳は『新入社員諸君!』を書いたひとなのだから。
 また「洋酒天国」五十五号に、山口瞳が一晩で三十数枚の「ウイスキーの飲み方」を書くことになった経緯は、初めて知り、山口瞳が、その当時はぶんぶん働いたという熱がわかった気がした。こうした事実が、エピソードを交えていくつも明かされている。作家となった山口瞳について小玉氏は、人間を観察し批評するスタイルは、F・ベーコン『随想集』やモンテーニュ『随想録』から学んだのではないかと述べているが、傾聴に値するものだ。山口瞳ファンにはこたえられない一冊である。
(なかの・ろう 「山口瞳の会」主宰者)

『「係長」山口瞳の処世術』
小玉武
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