ちくま学芸文庫「日本の百年」完結記念 鶴見俊輔インタビュー

近代をつくった幕末明治の日本人

鶴見俊輔(評論家 /「日本の百年」編集委員)、中島岳志(北海道大学准教授)

創造の源泉になったのは——
中島 初版(一九六一−六四)は直近の時代を一巻とし、巻が進むにつれ過去に遡っていくスタイルでした(文庫版では時代順)。
鶴見 これは吉田東伍の『倒叙日本史』がもともとのアイデアです。吉田東伍の考え方は、痕跡としては残っています。現在から考える。どうしてこういう現在になったかと遡って問題を認める。遡る過去というのは幕末です。だから百年なんですよ。これは倒叙の形のつもりだったから、いまの根本はどうだったか、いつでも考えている。
中島 それで最近のところから逆の順にしていったのですね。
鶴見 私は、とにかく日本では小学校しか出ていない。最近のところから書くしかない。でもしまいに明治維新までやったわけだから、いい勉強になりましたよ。
中島 資料集めなどはどうされたのですか。
鶴見 一番役に立ったのは、栗田ブックセンター。雑本をずいぶん持っていてね、そこに通って、片っ端から読んでいった。
 この作業は、私にとっては、不良少年だった小学校のときの体験と同じです。とにかく、小学校から帰るのに三時間かかる。というのは、途中神田の古本屋街で、いろいろな店に入っていくと、もう顔になっているからね、いくらでも本を出してくれる。あの頃はまだ明治の空気が残っていて、小学生なんてどうせ買わないからとハタキでパッパッと追い出しちゃうこともなくてね、「君はよく本を読むね。こういう本もあるよ」と、お蔵からいろいろ出してくれる。三巻ものの、日本の野球全史だとか、江戸時代からの相撲の膨大な全番付だとか。
 ここで得た知識は、学校では何の役にも立たない。だけど、自分で手に入れた知識だ。知識そのものの喜び、知的な喜びなんだ。だから、あとになって考えてみると、創造に繋がるのはそっちだ。
 私は十六歳から十九歳までハーヴァード大学にいましたが、アナキストだという自分の証言を逆手にとられて途中で牢屋に入れられちゃったから、通っていたのは二年半に過ぎない、ちゃんと飛び級で卒業させてくれたけど。その二年半はものすごく勉強した。先生たちは本当にすぐれた人だった。でもね、記号論理学に私がした寄与はゼロです。これに対して、小学生の頃に毎日三時間かけて神田を歩いていたときの経験は、それこそ創造の源泉だった。
 学校で成績のよかった官僚たちは、そういうことを理解しない。先日、文部科学大臣が、これからは研究費を増やして、ノーベル賞受賞者を三十人増やすと言いましたね。あんなことを大臣が臆面もなく言えるのは、世界でもめずらしい。他ではあり得ない。つまり、学問の創造性をそんなものだと思っている。低劣だね。大学の秀才ってダメだな〜。私はもう東大に対して全く否定的です。成績が一番で何になる、俺は小学校でさえビリから六番だと(笑)。
 経済統計からも、文化統計から見ても、日本はいま二流国ですよ。そのポジションをしっかり見つめて未来を考えなくてはいけない。資源は非常に少ないのだから、それを踏まえて、世界の中のどういう三流国になるか、道筋を考えることです。ところが、日露戦争以来の幻想で、まだ一流国の末端にいるような気になっているし、アメリカの言うとおりになっていればそういられると思っている。その錯覚が問題だと思うね。もし、この十巻のあとを書く力があったら、そのことを書きたいですよ。
中島 これから何が必要と思われますか。
鶴見 学校の外で育つ人材、育つ場所が必要でしょう。いまは学校を途中でやめちゃうと、どこにも行き場がない。犯罪しかないわけだよね。それは困る。転んで挫折しても、また立ち上がれる場所がないとダメです。失敗こそが思想の力の源泉なんですよ。失敗を恐れて成功の上に成功を積んだところに、創造的な未来なんてない。
 明治の偉大な人の多くには、失敗をかみ締める時間があった。私のじいさんの後藤新平は、牢屋で漢詩をつくった。「荘子は胡蝶を夢に見た。胡蝶はどこにでも飛んでいく。こういう境涯では、スケジュールなんて考える必要はないのだ」と。彼はその後十年ほど経つと鉄道大臣になるけれども、牢屋の中では、時間表なんて考える必要はないという詩を詠んでいる。
 獄中で詩を詠む。そういう境涯が、いまの日本人にはないでしょう。たとえば少年院なんかは、果たして失敗をかみ締めて立ち上がる場所になっているのかな。そういう意味では、私にとっての少年院はアメリカだったわけだけれど(笑)。そのあと日本にもどってからの軍隊が実刑にあたる。

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