ジッドの呼びかけ―真の自由をもとめて/二宮正之
画期的な翻訳を次々に打ち出し、日本語による仏文学の宝庫を築いてきた筑摩書房の編集者岩川哲司氏が社の大先輩淡谷淳一氏の意志を継いで声をかけてくれてから長い歳月を経て、いわゆる《小説》のほぼ全作品とエッセーの一部を新たに翻訳して、世に問う段取りになった。世に問うとは大時代な表現であるが、ジッドには現代に強烈に呼びかける力がある、「いかに生きるか」の問題が各人に突きつけられている今こそその真価を発揮するだろう、という意味あいである。
ヨーロッパに長い間暮らしていて強い印象を受けたのは、なんといってもベルリンの壁の撤廃であった。その前にシベリア鉄道で日本に戻った際に、そら恐ろしい検問を受けて横切ったのが最初の東独経験だったが、その後、未来永劫に取り壊しはできまいと思っていた壁が打ち壊されて、一度は旧東ベルリン側スターリン様式の高層ホテルに、次は地階がキャバレー兼売春宿、上は《まともな》ホテルという西ベルリン側に、という具合に何度かベルリンを訪れた(私が泊まったのは上の宿である)。歴史は人間の力で変えられる、自由を求める人間を永遠に封じ込める壁はない、という実感は強かった。ある日、ベルリンの絵画館で、私は一枚の中世の宗教画の前にとまった。ディルク・ボウツの「ファリサイ人シモンの家のキリスト」である。実はジッドが一九〇七年一月にベルリン滞在中にこの絵に接して、それがきっかけで自分の全体像を一枚の絵に納めたような、《なかじきり》ともいうべき作品を一気にかきあげたのだった。『ルカによる福音書』第七章「罪の女の塗油」を描いたもので、マグダラのマリアが、食事中のイエスの足元に這うようにして、イエスの足を涙で洗い、髪でぬぐい、油を塗る場面である。この世の硬直した掟を超える「愛」の価値を説く譬えだ。ジッドは、彼女と対をなして、向かい側に絵の奉納者がひざまずいていることにも注目し、『日記』に特記している。
当時のジッドは『背徳の人』以来精神的な苦渋が深まり、『狭き門』の執筆も滞りがちであったのだが、フランスに戻るとすぐに新作に取りかかり、二週間後にはほぼ完成、他に例を見ない早業で、鴎外ではないが《なかじきり》を書き上げた。倫理観と芸術観の両面においてジッドの真髄を結晶させた小品『放蕩息子の帰宅』(一九〇七)である。題材は同じく『ルカによる福音書』のイエスの譬え話「失われた息子の譬え」である。
ベルリンで見たボウツの絵の余波は「序言」に明らかである。「私はここに、ひそかな歓びをもって、いにしえの三幅一連の祭壇画に見られるように、主、イエス・キリストの語った寓話を描き出した。[……]読者が多少なりとも敬虔な心を私に求めるのなら、この絵のうちにそれを探すことは、あながち無駄ではあるまい。片隅に描かれている絵の奉納者という形で、放蕩息子と向かい合って、私は、彼と同じように微笑を浮かべると同時に顔を涙に濡らして、ひざまずいている。」
作品全体の深い意味は、『アンドレ・ジッド集成』第Ⅱ巻所収の拙訳を熟読していただきたいが、要点は三つある。まず、徹底的に「愛」を重視するイエスの教えに対するジッドの深い共鳴。これはスキャンダラスな反逆児、アナーキストとさえ呼ばれたジッドの生涯を貫いて響いている。次に、その愛を重視しながら、まさに人類全体に対する大きな愛から、イエスの譬えにはない新たな要素を加えて「自由」希求の価値を謳いあげるジッドの強い倫理観。そして、作者自体を作品中に登場させ、創作行為をも取り込む全体像としての小説探求という斬新な文学観である。
後の世のベルリンの壁の悲劇、それからの解放と重ね合わせると、この小品に象徴されるジッドの倫理観・芸術観はさらに輝きを増す。しかし、今の日本にはベルリンの壁も、倫理上の強い拘束もないではないか、自由はありすぎるほどある、小説は自由に書かれ、ものによっては何十万部も売れるではないか、という人もいるだろう。それは、最も恐るべき目に見えない壁に気がついていないからだ。ジッドを再発見しよう。
(にのみや・まさゆき ジュネーヴ大学名誉教授)
二宮正之訳
『アンドレ・ジッド集成第Ⅲ巻』(全五巻・第一回配本)
※5月下旬刊行予定
ご注文方法はコチラ
トップに戻る
バックナンバー
- 第637号24年4月号
- 第636号24年3月号
- 第635号24年2月号
- 第634号24年1月号
- 第633号23年12月号
- 第632号23年11月号
- 第631号23年10月号
- 第630号23年9月号
- 第629号23年8月号
- 第628号23年7月号
- 第627号23年6月号
- 第626号23年5月号
- 第625号23年4月号
- 第624号23年3月号
- 第623号23年2月号
- 第622号23年1月号
- 第621号22年12月号
- 第620号22年11月号
- 第619号22年10月号
- 第618号22年9月号
- 第617号22年8月号
- 第616号22年7月号
- 第615号22年6月号
- 第614号22年5月号
- 第613号22年4月号
- 第612号22年3月号
- 第611号22年2月号
- 第610号22年1月号
- 第609号21年12月号
- 第608号21年11月号
- 第607号21年10月号
- 第606号21年9月号
- 第605号21年8月号
- 第604号21年7月号
- 第603号21年6月号
- 第602号21年5月号
- 第601号21年4月号
- 第600号21年3月号
- 第599号21年2月号
- 第598号21年1月号
- 第597号20年12月号
- 第596号20年11月号
- 第595号20年10月号
- 第594号20年9月号
- 第593号20年8月号
- 第592号20年7月号
- 第591号20年6月号
- 第590号20年5月号
- 第589号20年4月号
- 第588号20年3月号
- 第587号20年2月号
- 第586号20年1月号
- 第585号19年12月号
- 第584号19年11月号
- 第583号19年10月号
- 第582号19年9月号
- 第581号19年8月号
- 第580号19年7月号
- 第579号19年6月号
- 第578号19年5月号
- 第577号19年4月号
- 第576号19年3月号
- 第575号19年2月号
- 第574号19年1月号
- 第573号18年12月号
- 第572号18年11月号
- 第571号18年10月号
- 第570号18年9月号
- 第569号18年8月号
- 第568号18年7月号
- 第567号18年6月号
- 第566号18年5月号
- 第565号18年4月号
- 第564号18年3月号
- 第564号18年3月号
- 第563号18年2月号
- 第562号18年1月号
- 第561号17年12月号
- 第560号17年11月号
- 第559号17年10月号
- 第558号17年9月号
- 第557号17年8月号
- 第556号17年7月号
- 第555号17年6月号
- 第554号17年5月号
- 第553号17年4月号
- 第552号17年3月号
- 第551号17年2月号
- 第550号17年1月号
- 第549号16年12月号
- 第548号16年11月号
- 第547号16年10月号
- 第582号19年9月号
- 第546号16年9月号
- 第545号16年8月号
- 第544号16年7月号
- 第543号16年6月号
- 第543号16年6月号
- 第542号16年5月号
- 第541号16年4月号
- 第540号16年3月号
- 第539号16年2月号
- 第538号16年1月号
- 第537号15年12月号
- 第536号15年11月号
- 第535号15年10月号
- 第534号15年9月号
- 第533号15年8月号
- 2019年8月号 No.581 目次はこちら
- 第532号15年7月号
- 第565号18年4月号
- 第531号15年6月号
- 第530号15年5月号
- 第529号15年4月号
- 第528号15年3月号
- 第527号15年2月号
- 第526号15年1月号
- 第525号14年12月号
- 第524号 14年11月号
- 第523号14年10月号
- 第522号14年9月号
- 第521号14年8月号
- 第520号14年7月号
- 第519号14年6月号
- 第518号14年5月号
- 第517号14年4月号
- 第516号14年3月号
- 第515号14年2月号
- 第514号14年1月号
- 第513号13年12月号
- 第512号13年11月号
- 第511号13年10月号
- 第510号13年9月号
- 第509号13年8月号
- 第509号13年8月号目次
- 第508号13年7月号
- 第507号13年6月号
- 第506号13年5月号
- 第505号13年4月号
- 第504号13年3月号
- 第503号13年2月号
- 第502号13年1月号
- 第501号12年12月号
- 第500号12年11月号
- 第499号12年10月号
- 第498号12年9月号
- 第497号12年8月号
- 第496号12年7月号
- 第543号16年6月号
- 第495号12年6月号
- 第494号12年5月号
- 第493号12年4月号
- 第492号12年3月号
- 第595号20年10月号
- 第491号12年2月号
- 第490号12年1月号
- 第489号11年12月号
- 第488号11年11月号
- 第487号11年10月号
- 第486号11年9月号
- 第485号11年8月号
- 第484号11年7月号
- 第483号11年6月号
- 第482号11年5月号
- 第480号11年4月号
- 第479号11年3月号
- 第478号11年2月号
- 第478号11年1月号
- 第477号10年12月号
- 第476号10年11月号
- 第475号10年10月号
- 第474号10年9月号
- 第473号10年8月号
- 第472号10年7月号
- 第471号10年6月号
- 第470号10年5月号
- 第469号10年4月号
- 第468号10年3月号
- 第467号10年2月号
- 第466号10年1月号
- 第465号09年12月号
- 第464号09年11月号
- 第463号09年10月号
- 第462号09年9月号
- 第461号09年8月号
- 第460号09年7月号
- 第459号09年6月号
- 第512号13年12月号
- 第456号09年3月号
- 第458号09年5月号
- 第455号09年2月号
- 第457号09年4月号
- 第548号16年11月号
- 第548号16年11月号
- 第454号09年1月号
- 第520号14年7月号
- 対談
- 第509号13年6月号
- 第524号14年11月号
- 第548号16年11月号
- 第565号18年4月号
以前のPRちくま
「ちくま」購読料は1年分1,100円(税込・送料込)です。複数年のお申し込みも最長5年まで承ります。 ご希望の方は、下記のボタンを押すと表示される入力フォームにてお名前とご住所を送信して下さい。見本誌と申込用紙(郵便振替)を送らせていただきます。
-
受付時間 月〜金 9時15分〜17時15分
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3