さみしさの核になるもの/堀江敏幸

 トーベ・ヤンソンは、まずもってひとりのすぐれた作家である。それは邦訳紹介されている著作を通じてすでに示されていることだが、本書『旅のスケッチ』は、二十代の若々しい作品群を提示することで、彼女の創作歴に新しい魅力を付与してくれるものとなった。収められているのは八篇。それぞれがひとつの都市を舞台としている。パリ、ドレスデン、セルムランド、ヘルシンキ、ヴェローナ、カプリ。
 一九三四年、二十歳のヤンソンは欧州を旅し、ドイツの都市をまわってパリを訪れた。花の都というより、フィンランド人の父とスウェーデン人の母が出会った特別な場所である。美術館で数々の名画に触れ、とりわけ印象派に惹かれたという画家の卵は、その年のうちに、タブロイド判の新聞に短篇小説を挿絵入りで発表した。これがデビュー作となった「大通り」である。
 主人公は、しかし未来を夢見る若い画家ではなく、かつては絵を描きながら、「大衆に真珠を投げあたえるのはもうやめた」と言ってその道を捨てた初老の元画家。頑なで傲慢で狭量な芸術至上主義者として馬鹿にしているのではない。この男が「小説の始まりってやつ」を「みとどけてやる」ために、言葉にする前段としての、観察眼を与えようとするのだ。彼は食事のために入った店で若い男女を見かけ、その関係を確かめるべくあとをつけるのだが、ふたりは車に乗って呆気なく目の前から消えてしまう。大通りを人生の柱と見なしているかぎり、脇道の機微はわからない。観察の真似事はできても、本当の意味での観察眼に必要な対象との距離の詰め方が理解できないのだ。
 とはいえ、観察の対象を前にしたこの茫然自失とその追認こそが小説家に求められる感覚であり、主人公が抱く「孤独な老残の身の寂寥」は、じつはヤンソンがその後も形を変え場所を変え、人物造形を変えながら追い求めていく、生きていくうえで必要不可欠なさみしさの核になるものだった。
 一九三八年、ヤンソンは奨学生として再びパリにやって来る。由緒のある国立美術学校に登録したものの、旧弊な雰囲気になじめなかったらしい。「鬚」と題する一篇には、その影が少し落ちている。紋切り型に満ちた能書きを垂れる若い画家の矜恃がいつでも剃り落とすことのできる鬚と同程度のものでしかないという皮肉が、軽やかに、でも適度な陰湿さで描かれている。ボヘミアンを気取る男には、もう精神的な意味での老残の匂いが漂っている。
 登場人物たちは、孤独に苛まれる夢から覚めたあとも、それを厄介な荷物のように引きずっている。彼らはその意味で旅人なのだ。ひょんなことからひとりの娘と知り合い、彼女の恋人からの便りが局留めで届くのを待ち続けることになった「手紙」の老人のように、夢から覚めても、覚めたことじたいが夢に等しいと感じられる現実に救いを見出しうる事例もあるとはいえ、物語はほぼ、自分の居場所から外へ出ようとしながら、最後には元に戻ってくるという可能性をほのめかして終わる。
 往還の旅の組み合わせの基本は、ひとりではなくふたりだ。「街の子」に登場する娘たちのように、列車の客室で向き合って坐り、互いに反対の方向を眺めている向かい合わせの孤独を扱うときも、ヤンソンは両者を等しく抱えて、どちらも見棄てていない。他者を求めざるをえない人物の内面というより、むしろそのような状態に立ち至った現在を冷静に見ようとする。二十代にして、彼女は「小説の始まりってやつ」のなかに、「終わりってやつ」の影をきちんと読んでいるのだ。
 この短篇集を読み通すと、ヤンソンという書き手のなかでは、複数の都市がひとつの世界を、島を形作り、人物はみなそのなかで暮らしている住人だという気がしてくる。変化を好まない人間と変化を求めながらそれを果たせない人間の交わりを、細部の観察を拒むありふれた奇跡として描くこと。大通りではなく脇道でこそ有効な作家として最も大切な眼差しが、この八篇のなかではもう充分に輝いている。
(ほりえ・としゆき 作家)



旅のスケッチ トーベ・ヤンソン初期短篇集
トーベ・ヤンソン著/冨原眞弓訳1600円+税

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