詩が伝わる歓び/梨木香歩


 実は、と書き起こすのも恐縮だが、初めて自費出版で出した本(というよりも冊子)は詩集で、それは高校生の頃であった。私のアイデンティティは、口幅ったいが、今でも内奥深く降りると「詩人」であるはずだ。そんな人間ですら、近年、以前と較べると日常的に「詩」を読む、ということからずいぶん離れていたように思う。個人の問題のみでもなさそうだ。

 本書の著者、井坂洋子氏は、
「半世紀ほど前にはひとクラスに二、三人はいた詩の好きな人が、いまは一学年に一人もいないという詩にとって危機的な状況に陥っている。」と憂い、本書執筆に当たって、「詩を通じてひとりの人、あるいは一人ずつの人と共振したい」と願った。このことばを読んだ瞬間(それはこの本を読み終わった瞬間でもあったのだが)、この感覚がまっすぐに自分の中心に向かって飛び込んできた。まるで自分のなかから湧いてきたもののように。読んでいる間中、私は確かに「共振」していたのである。それを言い当てられたかのようだった。

 本誌で「原詩生活」という題で連載されていた頃から、本作を毎回楽しみにしていた。文章が論理性を伴いながら神経細胞のように伸び、隅々に行けば行くほどそこでふくらみを持つ。馥郁と豊かなのだ。そのことは不思議なことに読む前に一見してわかるほど(なぜだろう。漢字とひらがなと、なにかのバランスなのだろうか)で、掲載ページの質感さえそこでは違って感じられた。ほとんどが他の詩人の詩の解説なのだが、一語一語を丁寧にたぐり寄せ、その周囲に近づいたり遠目で見たりしながら賞翫していく、その手つきの厳かさ、確かさ、また謙虚さが、なんともいえず、読者と「詩」との距離を縮めていく。そうなのだ。ひとは本来もっと詩と近しいはずなのだ、と高校生の私が強く頷く。ひとは、「……詩なるものを呼吸して生きている」存在なのだ。そうでないと生きている気がしない。

 そして猫と孫について書くようになったらおしまい、と自戒のように巷の言説を引きながら、御自身の孫についてのエピソードが一つ。よちよち歩きのお孫さんが、今では小さくなった最初の靴を見つけ、それを履かせろと、身振りで著者に迫る。それは無理、と著者は大きめの別の靴を履かせようとする。彼は体で拒む。それを見ていた著者の母上がつぶやく。「こんな子どもでも小さな過去ができるのね」。

 まさしく、「詩はあなたの隣にいる」瞬間だ。こういう瞬間を日常に埋もれさせず、すかさず感応し、掬い上げる瞬発力こそこの本全体の大きな魅力の一つである。「小さな過去といういい方が面白い。なるほど彼の上にも時は流れたのだ。夥しい過去を背負っている母の、ふと洩らした感慨――。」著者は手放しでほめることはしないし、ここでその言及は終わっているが、さらにいうと、過去が「ある」ではなく、「できる」といういい方も見ごとである。降り積もった過去の小さいなりの重みが感じられる。ここにもまた「詩への入口」があるのだろう。詩は生活や暮らしのなかに在るのではなく、その向こうに確かに在って、生活や暮らしにも滲出してくるものなのだ。

 今、私の目の前には、この文章を書くため送ってもらった本書のゲラがある。何も纏わない、清潔なほど平たく置かれた紙の、その上に、まるで海から獲ったばかりの牡蠣のように、著者のことばがあざやかにくっきりと、在る。この至福。会ったことのない井坂さんと、ひとりとひとりとして、対峙している。私は彼女の何も知らないけれど、彼女の核心がそこにあることを痛いほど感じている。ことばの力が、皮膚から毛細血管に浸み渡り、存在ぜんたいを芳しく充溢させていく。これは、まぎれもない、詩が伝わる歓び。生きることの秘密に、身の裡深く、またその奥深く、この上もないほど、近づいている。

(なしき・かほ 作家)

詩はあなたの隣にいる
井坂洋子著2200円+税

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