旅行記のような獄中生活/蜷川正大
私がもし映画監督であったならば、この本を原作として素晴らしいアクション、もしくはヒューマンドラマが確実に出来る、と思えてならない。読んで人をひきつけるものは、映画にしても面白いという脚本の基本があるからである。
ご夫人と共に行った先のハワイで、その旅行をお膳立てしたFBIのアンダーカバー(民間協力者)によって覚せい剤売買のビッグボスに仕立てられ、逮捕された挙句に、アメリカの重罪犯の収容される刑務所で十一年もの歳月を過ごした男。主人公の日本人ヤクザである吉村光男氏が、全く身に覚えのない覚せい剤取引と言う罪に陥れられた「囮捜査」。
恐らく、大半の日本人は、それはアメリカの映画の世界だけのことだと思っているに違いあるまい。FBIなどの捜査官が麻薬組織に潜入して証拠を固め、ボスを逮捕し、その組織を壊滅に追い込む。例えば、アル・パチーノ、ジョニー・デップが演じた「フェイク」や「マイアミ・バイス」「ガンシャイ」「ワイルドスピード×2」など、さほど映画マニアでもない私が思いつくだけで、次々と囮捜査を題材にした映画の題名が浮かぶ。こういった映画が次々と作られヒットするということは、とりもなおさずアメリカが抱える負の部分、すなわち病理と呼ぶにふさわしい社会がそこに存在しているからに他ならない。しかし、この囮捜査と言うものが、麻薬組織や売人を逮捕するためではなく、あるときはFBIの犯罪キャンペーンに使われ、罪なき者が逮捕されることもある、という驚くべき事実をこの本は教えてくれる。
この本の主人公である吉村氏の逮捕の背景には、当時のFBI長官がアメリカの上院の公聴会で行なった「日本の暴力団はハワイにおける覚醒剤などの麻薬取引きの九〇%を支配している」との証言と、吉村氏が逮捕された当時のハワイでは、「アメリカの犯罪組織と連携した日本ヤクザが、不動産や観光施設、旅行会社、不動産会社などを買収している実態があるとの報告がなされて」おり、「そうした状況下、FBIは面子(メンツ)にかけても日本の大物ヤクザの 生贄(スケープゴート)、見せしめが必要」で、「そのターゲットにされたのが吉村氏だった」(本文より)という事実があった。
善良なる読者諸氏には理解できないかもしれないが、刑務所で辛いことと言えば、単に自由がない、あるいは寒さ、暑さといったこともさることながら、最も苦痛に思うのは、「言葉が通じない」ことからくるストレスである。アメリカの刑務所でのことではない、日本の刑務所においても、価値観の違う人たちと四六時中、一緒に生活を強いられる中で、通じ合う言葉を持つ者がいないということは、ともすれば自分を見失い、囚人同士の喧嘩や事故の要因ともなる。日本の刑務所でさえ、こういったストレスに悩まされるのに、まして日本語が全く通じない外国の刑務所での苦労と苦痛は、想像を絶する。この本のタイトルにあるように刑務所から「生還」した吉村氏の物語は、そのままサバイバル・ストーリーである。
しかし、この本には、読んでいて暗くなるようなことが一切ない。主人公の吉村氏が逆境を楽しみに変えてしまうほどの強靭な精神力の持ち主であり、何よりも、「無実」であることの信念が「生還」することの希望の灯を燃やし続けてきたのではないだろうか。過酷な異国での受刑生活の中で、映画「グッド・フェローズ」でロバート・デ・ニーロが演じたマフィアのボスや、百年、二百年という刑期の猛者たちとの交流など、映画のシーンが思い浮かぶような世界も描かれている。そして吉村氏の性格ゆえか、本来は地獄の日々であっただろう獄中生活が、旅行記のように感じてしまうところに、「ヤクザが、職業ではなく、生き様である」と語る、吉村氏の凄さが感じられる。
また淡々としか語られていないが、胸を打つのは、吉村氏のアメリカでの獄中生活を支えた、ご夫人の奮闘。英語を全く話せないにもかかわらず、吉村氏が収容されている近くの町にアパートを借りて生活し、面会に行き、吉村氏を支えたご夫人の献身。是非次は、「人間」を描いては当代随一の山平重樹氏に、そのご夫人の奮闘記を上梓して頂き、文字通りの連理の本として頂きたい。
(にながわ・まさひろ 二十一世紀書院代表)
『連邦刑務所から生還した男 ―FBI囮捜査と日本ヤクザ』
山平重樹
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