笑いの錬金術/中村明
笑いは副作用のない健康の薬。エンドルフィン、NK細胞、アルファ波といった専門語の魔術で何となくわかった気分になる。記憶力が衰えて同じ本が何度でも面白く読めるとか、学士会館で紳士が俺の名前何だっけと家に電話したとかと聞くと、気の毒ながらおかしい。福原麟太郎は「泣き笑いの哲学」で「表面誰が見ても悲しいものが、他面おかしいと感じられることはたしかにある」とし、「おかしくものを見る哲学がうらにある」からだと説く。笑いを生み出すのは自然や事柄そのものではなく、そこに生きる人間の発想と表現なのだろう。
数年前に岩波書店から『笑いのセンス』と題する著書を出して日本語の笑いの全体像の大胆な体系化を試みた。昨年の暮れ、筑摩書房から今度は『笑いの日本語事典』という大きな顔をした小著を出し、笑いを誘う発想と表現のしくみを三十種に分類して面白おかしく「例証」した。そう書こうと思って今変換キーを押したら「冷笑」と出てあわてた。が、それでも通る。
小津安二郎は、尊敬してやまない志賀直哉からの手紙に「どうか遊びに来てくれ給え」とあるのを見て、「どうぞ」よりも、ぜひいらっしゃいという気持ちがこもっていると、ひどく喜んだという。「素っ裸」は衣類の有無というデジタル思考、「真っ裸」は覆われる面積ゼロに連続的に迫るアナログ思考。類義語のそんな微妙なニュアンスも、初めてそれに気付くと妙にくすぐったく、思わず口もとが緩む。
母親の葬儀の折、お経を読んでいる周りをまだ幼かった次男が走りまわった。あのとき「坊主、静かにしろ」と注意したらと思うとひやっとする。レストランで料理を作るのがシェフで、家庭で料理を作ってきたのが主婦。もしそれが高貴な高齢者なら「媼(おうな)主婦」となってオーナーシェフに似てくる。まったくの偶然とわかっていてもおかしい。笑いは文化だが、エスプリを好むかユーモアに惹かれるかは人柄によって分かれるようだ。
小沼丹は英国滞在の体験をもとに「倫敦の屑屋」その他の随筆を発表し、次いで同じ素材を創作的長編エッセイ『椋鳥日記』に仕立てた。当時の手控えをお借りして、雑事の記録がどんなふうに飄逸の文字となるのかを探ったことがある。単に「男」とあったのが「頭の禿げた小肥りの親爺」となり、「異様な声」が「頓狂な声」となり、勝手に「屑屋お払い」と訳される。
筑摩書房の『名文』という著書に初めてこの作家を取り上げたときは一面識もなかった。その後、同じ早稲田の出身でやはり現役の早大教授と知り、その本に引用して勝手な論評を加えたご挨拶に研究室を訪れた。「登高」という随筆を読んで誕生日が同じ九月九日であることは知っていた。手控えをぱらぱらめくると、それ以外にもいろいろ接点のあることがわかってびっくりした。武蔵野市にお住まいの小沼さんはなんと、小金井市在住の当方と同じK楼の中華料理を好み、同じ銀座のテーラーIでスーツをオーダーし、同じE歯科に通っていたらしい。
いつだったか家の者と小沼家を訪問して奥様と雑談していたら、先方も愚妻(高田保と同様、「いとしの」という気持ちをこめてそう呼んでいる)と同じころに中国から引き揚げて来たという話になって盛り上がった。小沼夫人もやはり、李香蘭こと山口淑子も同船していたというその船であったかどうかはわからない。が、何かの拍子に夫人が妻とまったく同じ誕生日だとわかり、唖然とした。二人はむろん別の人間であり、双子でも何でもない。夫どうし妻どうしがそろって同じ誕生日だという偶然はめったにないだろう。揚句の果てに、小沼邸の敷地がわが家とまったく同じ坪数だと知ったときには呆れてつい笑い出した。偶然もここまでくると神秘的で無性におかしい。
一九九六年十一月八日の昼過ぎ、早稲田の国際部の会議で久しぶりに顔を合わせた英文科のO氏に「小沼さん、その後どうなんだろう。ゆうべ夢を見たもんだから、何だか気になって」と話しかけた。まさにその日のほぼ同時刻、十二時十分に小沼丹逝去という事実をあとで知ることとなる。そして、二〇〇八年の十一月六日、思いもかけぬO氏の通夜があった。わずか数日のずれが何だか哀れに思われる。どういうことかしらん?
(なかむら・あきら 早稲田大学名誉教授/文体論)
『笑いの日本語事典』
中村明
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