田熊文助宛書簡発見の報に接して/東郷克美

大正十三年の井伏鱒二――「女人来訪」の背景東郷克美

 十年ほど前に完結した筑摩書房版『井伏鱒二全集』は、その時点で知りえた諸文を、断簡零墨に近いものまでほぼ収めているが、書簡集だけは後日を期することにした。編纂のお手伝いをして以来、私は井伏鱒二書簡集の夢をもち続けている。来年は没後十七年、生誕百十二年。もうそろそろいいころだ。
 先に新聞報道もあったように、大正十三年を中心とする田熊文助宛井伏書簡が発見された。すでに公表されている大正六年の森鴎外宛書簡についで古いものである。しかも、この年は大学中退後の井伏にとっても、もっとも苦しい青春彷徨の時代で、伝記的にも空白の多い時期に相当する。私は森本政彦氏(元筑摩書房)を介して、書簡を継承されている源河真理さん(田熊文助令孫)にもお会いし、それが大切に保存されて来た経緯なども伺う機会があった。その後書簡は源河さんのご意志で、日本近代文学館に寄贈されることになったが、近代文学館では現在調査整理中で、来年度中にも、その全容が公開されるだろう。すでに八十五年も前のことで、不明な点も少なくないが、故人や関係者にはお許しを願って、ここに私が知りえたかぎりの書簡の概要を紹介しておこう。書簡は封書が十一通(大正十三年と推定されるもの九通、昭和二十一年のもの二通)、はがき三通(大正十三年と推定)である。発信地は、福山市外加茂村の生家と東京牛込鶴巻町の下宿南越館で、宛先は田熊の下宿のある山口県柳井町波止場の凌波館(建物現存)、またはその自宅山口県熊毛郡塩田村である。
 田熊文助は、明治二十九年山口県に生まれ、旧姓浅原、早く田熊家の養嗣子となった。早稲田大学では国文科に進んだが、井伏とは予科以来同期で、「肋集」(昭11・5~12)その他井伏作品にもその名が出て来る。田熊は大正十年十月、在学中に家付の娘龍子(数え年十九歳)と結婚したが、彼女は三か月後に早逝する。田熊は大正十二年四月大学卒業後、岩国中学の国語教師になり、同年十二月には柳井高等女学校に転じた。
 ところで、井伏に「女人来訪」(昭8・2)という作品がある。作者自身とおぼしき主人公の新婚家庭に、かつて彼の求婚を断った女性が八年ぶりに訪ねて来て、小波紋をもたらす話である。「肋集」などによれば、ほぼ実際の出来事にもとづいているようだ。今回発見の書簡では、昭和二十一年のものをのぞいて、ほとんどすべてにそのモデルらしき女生徒への熱い思いが吐露されている。モデルについては、早くからT・Sという人物とされて来たが、この書簡では一か所をのぞいてすべて「お露」の名で登場する。柳井高女卒業生名簿に「露子」という名も見えるが、ここではあえてモデルを特定しないでおく。
 井伏は大正十一年、片上伸教授との軋轢もあって大学を中退し、翌年参加した同人誌『世紀』も大震災で解散、大正十三年四月からの一時期、田熊のいる柳井の下宿凌波館に滞在して、放課後には柳井高女の生徒に演劇活動の指導などもしたという。その間、田熊から「女人来訪」のモデルとなる女生徒(四年生)を紹介されたようだ。井伏の彼女への思いは、一気に燃えあがるが、結果的には失恋に終る。一方、井伏は二年前に幼な妻を失った文助に、福山中学時代の同級生高田類三の妹シヅヱ(明治三十六年生まれ)との見合いをすすめるが、こちらは順調にいって、十三年八月三十日にめでたく結婚に至る。すなわち今回の井伏書簡の継承者源河さんは、その孫にあたられるわけである。
 四月からの柳井滞在は、それほど長い期間ではなかったようだが、同年五月二十五日付加茂村からの長文の書簡には「柳井滞在中ほどの歓ばしさ、小生の生涯に未だ嘗て又最早小生にはなきものと知り申候」とある。右の書簡では、田熊に一日も早く福山に来て見合いをするように促し、「この度の結婚に対する小生の努力は、小生希望するが如き理想的生活を他人のうちに設立させやうといふ一種の芸術創造の衝動に候」とのべている。それにともなって自分の方の「理想的生活」への「衝動」も大いに高揚しつつあった。今度福山に来るときは「せめて彼女の写真と手紙何卒御持参被下度候。ひとへにこのこと失念なきやう申入れ申候」とのべるとともに次のように書き送っている。
如何なれば小生斯くは思ひ恋するにや、今宵の卯の花くだし五月雨降りしきり申候故お露今頃はお針の稽古しながら小生の頓狂笑ひを想ひ出してその軽薄気質を優しく責むる目つきいたし居らんかと、はるかに想像いたし居り申候(中略)先夜三更、彼女のことを夢に見て、夜着の中にて涕泣つかまつり候。
 井伏は田熊に彼女の意向を打診してくれるようたのんだらしい。彼女を知ったのが四月以降のことだとすれば、その恋心の進み具合はいささか急激にすぎる。六月末から七月にかけてと推定される東京からの書簡によれば、田熊には「時節をまて」といわれたらしく、それを「よく合点行つた」としながらも、「若し万一、その時になつてこのことが破滅に終つたとすれば、そのときは又悲しむ術もあるなれば、今は落ついて仕事に没頭するつもりである。(中略)今度の僕の彼女が逃げてしまふやうなことがあつたとすれば、僕はいさぎよく純粋なボヘミアンに一生を終らうと思ふ」などと悲壮な決意まで告白している。井伏の恋愛体験としては大正七年予科二年のときの、女子美術学校の生徒への「缶詰めの恋」が知られているが、これはその「ほろにがい」初恋とは異る切実さを秘めている。
 七月十八日付の東京からの葉書には、八月八日は「点呼」(軍隊の簡閲点呼)のため帰郷するが、「ともかく先方もぐらついてゐるらしいので気持が鈍つて来てゐる」とある。八月初め(東京)には「彼女に逢ふべくいゝ場所」を指定してくれとまでいっているが、その後どのような経緯があってか、八月十三日付の加茂村からの塩田村の田熊宛書簡では、柳井行きについて「僕のお露も全然僕から去つたものらしいので、僕は行かないことにした」として、傷心の思いを次のようにものべている。
又、僕が行つたにしても、この前二度めに行つたときのやうに逃げてしまはれては、行つた甲斐のないのは勿論、僕は心の自分の誇りと憧憬に対して辱しくもなり、自暴自棄にもなつてしまふであらうと思ふ。それよりも、このまま行かないで、出来るだけ彼女の幻を消すやうに努力することにすればいゝのだ。(中略)彼女に対してだけは出来るだけ素直に面をむけてゐたいと思ふ。あの如くいみじき恋であつたからである。破れたにしても誇りのまゝ想ひ出されるであらう。
 これがすでに処女作「幽閉」(大12・7、「山椒魚」原型)を発表している作者の失恋の表白である。右のようにいいながらも、とにかく何らかの方法で「彼女の意嚮」をきいてもらいたいとたのみ、先日送った手紙や書物などの贈物を届けてくれたかとたずねている。
 もとより彼は文学を忘れていたわけではない。八月下旬(東京)の書簡には、高田類三から田熊の縁談について「吉答の手順」がととのいつつあるとの知らせがあったことを「大賀の至り」とした上で、自分の方は「ズーデルマン半分訳し、もう組んでゐる」から、上梓したら送るといっている。柳井滞在中にもその仕事をしていたと思われるが、この翻訳は『父の罪』の標題で九月十日に聚芳閣から刊行される。同じ書簡には次のようにも書かれている。
先日寒山先生をモデルにしたものゝ原稿はまだ発表になるか何うか判然しない。いけなければそれまで。早稲田文学はあまりチヤチだからいやなんだ。それにあの連中はいやなんだ。これは敗けおしみだと思つたらまちがひなんだ。小生は鱒二好みにスタートを切るのである。だが斯ういふこの男は二十七歳である。鳴かず飛ばず已に久し矣!
 井伏の作家的出発の舞台となったのが、『早稲田文学』ではなく、むしろ『三田文学』であったことはよく知られている。大正十三年の段階でこの「鳴かず飛ばず」の無名作家が、『早稲田文学』は「チヤチ」だとする気概ももっていたことが注目される。またのちに「寒山拾得」(『陣痛時代』大15・1)として発表される作品も、すでにこの年には書かれていたことがわかる。放浪する贋旅絵師の友人との出会いに、自己の流離の境涯を託した作品である。
「お露」のことについては、やがて決定的な破局がやって来る。十三年十月ごろと推定される書簡(東京)によると、井伏が田熊を通じてわたした手紙や書物などの贈物の「返品」が彼女の方からあり、それと前後して、彼女の級友から届けられた「中傷」(内容は不明)の手紙が彼をうちのめす。田熊とその同僚は、彼女に「肯」「否」を確かめようと提案したらしいが、「然し、最早総ておそいのである。僕は断念してゐるのだ。(中略)此度彼女の級友の手紙は僕を十分に参らして見るかげもない不幸者にさした」といっている。さらに井伏は「彼女がこの七ケ月僕を鞭達してくれたのだ」といいつつも、今の「勤めも止す事に定めた」と一切が崩壊した絶望的な胸中を語っている。この二十七歳の純情ぶりを見よ。
 かくして「七ケ月」にわたる「お露」への恋に終止符が打たれる。各書簡からは井伏の一方的な思い入れのみが強く感じられるが、それはまったくの片思いにすぎなかったのだろうか。同じ書簡によると、田熊が彼女の行動について「彼女が純真を装つて」いたのだと慰さめたのに対し、井伏は「彼女は恋することを知つてゐたのだ。凌波館の君の住んだ上り口の室で彼女は僕の拵へた右腕の環の中でお湯に入る様に瞳をつぶつたのである」ともいっているが、もちろんそれ以上にはすすまなかった。
 一方、大正十三年の早稲田では、天弦片上教授の排斥運動が起っていた。先に引いた六月末から七月にかけてのものと推定される手紙には「天弦いよいよ学校を止すことになつ」たとある。片上は六月に大学を辞し、ソ連に赴く。片上退職後も、この紛争は、文学部の内部抗争とからんで尾を引き、十月十二日には片上のセクハラ的スキャンダルを暴露する「片上伸氏事件顛末公開状」なるものまでばらまかれる。排斥派からは事件の被害者である井伏にも運動に加わるようにすすめられたが、井伏は彼らを「暴徒の群」と呼んでそれを拒絶し、「芸術と恋の外なにもなし」と揚言している。雑誌『人類』に載った小説「祖父」(大13・9)が好評だったので「キエン」(気炎)をあげているのである(大13・10推定、はがき)。しかし、井伏の「満身瘡痍」の無名時代は以後もながく続く。それは「岩屋」に閉じこめられた山椒魚の日々に似ていたことであろう。
 田熊文助は、昭和二年に教職を辞して地方の政界に転じ、村長、県会議員(のち議長)などをつとめる。戦後の第一回総選挙に出馬したときには、井伏も加茂村から応援にかけつけるが、田熊は落選した。昭和二十年四月二十三日付、太宰治宛の井伏書簡には「(長兄)文治氏当選万慶です。僕は英之助の義兄の応援演説をしたが、お話にならなかつた。聴衆が止せ止せと云ふ。ひどい恥をかいた。むろん英之助の義兄は落選であつた」とある。英之助は高田類三の末弟。今回発見の昭和二十一年四月二十七日付田熊宛書簡には「僕はわい連として出かけたので君の得票がすくなくなつたのではないかと思ふ。今日の大衆には石田石松(?)といふやうな人が向くのだ」と書いている。「石田石松」は「石田一松」のこと。
 井伏と田熊の友情は終生続く。田熊は昭和四十一年に没するが、神籠石で知られる石城山を望む田熊邸には、井伏の筆で「石城山をこよなく愛しこの山に一生を懸けた男ここにその生涯を終る」と刻まれた石碑が建っている。生前の文助が井伏に碑文の執筆を依頼したものだという。(とうごう・かつみ 日本近代文学)

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