スランプになったら基本に帰れ/守屋 淳

「スランプになったら基本に帰れ」というのは、スポーツなどの世界で、よくいわれる金言です。
 実は昨今、「日本資本主義の父」「実業の父」と呼ばれる明治の偉人・渋沢栄一に注目が集まりつつあるのですが――実際、その記念館には問い合わせや講演依頼が急増しているそうです――その背景には、前掲の金言のような事情がかかわっているように思えてなりません。
 その昔、日本は「経済一流、政治は三流」などといわれ、他はともかく経済だけはしっかりしているという評価がありました。ところが最近は、それを裏切る事態が続いています。
 まず、時は二〇〇八年、経済財政相が「もはや経済も一流とは言えなくなった」と国会で発言。それと軌を一にするかのように、同年末には年越し派遣村が日比谷公園にあらわれました。
 また二〇〇九年に政権が民主党にかわり、日本の貧困率が初めて政府より発表されました。その結果はOECD加盟国のなかでも下位グループにあたる一五・七%。国民の約七人に一人強は年収一二七万以下という驚愕の数字が出てしまったのです。
「失われた十年」と言われた経済不況の時期、それでも日本は世界第二位の経済規模を誇って、「構造改革さえすれば何とかなる」「日はまた昇る」という希望が語られてもいました。ところが今や「経済大国」「経済一流」などと、どの面下げて言えるのかという厳しい現実の前に、その信念やプライドがズタズタになり始めています。
 一体、なぜ日本はこうなってしまったのか。いや、こんな事態に陥る前に、そもそもなぜ日本はうまくいっていたのか――
 そこでスポットライトが当たり始めたのが、明治時代、近代日本の資本主義や実業界をいわば設計し、稼働させた、
「渋沢栄一」
 という「日本の原点」だったわけです。まさしく「繁栄の基本」に帰って、スランプ脱出を図ろうというのでしょう。
 さてその栄一、代表作といえば自伝である『雨夜譚』それに『論語と算盤』『青淵百話』といった講演録や語録になります。もちろんいずれも人の生き方や働き方のヒント、国家繁栄の秘訣がつまった傑作ぞろいなのですが、残念ながら現代人には、漢文調がきつく、かなり読みにくいのも事実なのです。
 たとえば『論語と算盤』には、こんな一節があります。


 およそ業は勤むるに精しく、嬉しむに荒むというが、万事がすなわちそれである。もし大なる趣味と大なる感興とをもって事業を迎えられたならば、たとえいかに忙しく、またいかほど煩わしくとも、倦怠もしくは厭忌というがごとき、自己が苦痛を感ずる気分の生ずべき理由はない。


 明治期の文章や、漢文調の文章になれた人であれば、特に難しい文章ではないと思うのですが、そうでなければ正直読んでいて放り出したくなるような文面ですよね……。
 しかし、こんな表層の問題によって栄一の叡智が広く知られなくなってしまうのは、余りにもったいないのではないか……。そう考えて筆者は、『論語と算盤』の現代語訳を二月に刊行しました。前出の部分は、次のような訳になります。
「仕事は地道に努力していくほど精通していくが、気を緩めると荒れてしまう」
といわれるが、何事においてもこれは当てはまる。もし大いなる楽しみと喜びの気持ちをもって事業に携わっていくなら、いかに忙しく、いかにわずらわしくとも、飽きてしまったり嫌になってしまうような苦痛を感じるはずもないだろう。


 この訳の当否は、読者の方からの指摘を待ちたいと思いますが、こうした作業が、少しでも日本や日本人のスランプ脱出の一助になれば、と筆者は思っています。
(もりや・あつし 作家)

『現代語訳 論語と算盤』 詳細
渋沢栄一著 守屋淳訳

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