知の種/高田明典

 立場が変わると見えてくることがある。
 今回出版された『現代思想のコミュニケーション的転回』は、野田義一先生の講義と、御著書『思考力の成立』に多くの着想を得ている。約三十年前、先生は「教育原理」の非常勤講師として、岐阜から東海道本線・新幹線・山手線と乗り継いで、約三時間かけて早稲田までお越しいただいていた。教育学科の三島二郎先生が無理をおしてお呼びしているということだった。
 野田先生の講義には、いくつもの思い出がある。平野婦美子の『女教師の記録』を引きつつ、「あめふり」の「あ」も、「あかちゃん」の「あ」も、同じ「あ」だということが子供にとって驚きであるという講義のくだりは、今でも鮮烈に記憶に残っている。思考の乗り物である「言葉」は、個人知を共通知に格上げするときに必要となるものであって、そのときに「思考力」が発生する。つまり思考や言葉とは、共通知を作り上げるためにこそ存在する。今になって思えば、この考え方はカントが手をつけアーペルが到達した地平であり、現代においても多くの分野で検討が行われているものである。
 大教室での教職必修科目だったこともあり、教室は騒がしかったが、野田先生が注意することはなく、代わりに熱心な学生が先生の傍に歩み寄り「先生、マイクをお借りします」と断ってから、学生に向けて「君たち! 教育学部の学生なら、この講義の重要性は認識できるはずだろう。静粛に聴きたまえ!」と注意したりしていた。当時の大学には、まだそういう空気が少しは残っていた。今は、もうないかもしれないが。
 学年末試験のとき、それまで先生とはお話ししたことはなかったのだが、答案を早めに書き終えて提出して教室を出ようとしたときに先生に呼び止められ、「一年間しっかり聴いてくれてありがとう」と声をかけられた。正直私は不思議な気持ちだった。数百人が受講する大教室で、先生が特定の学生を認識しているとは思っていなかったからだったが、その不思議な感じは、ずっとわだかまったままだった。
 それから十数年経過し、今度は自分が大学の教壇に立つようになったときに、野田先生のお気持ちが少し理解できたような気がした。教壇に立つ教師は、学生が思っている以上に学生をよく見ているし、どの学生がどのくらい熱心に耳を傾けているのか、どの程度理解しているのかを、とてもよく察知できる。近年は、圧倒的に落胆することのほうが多いのも事実だが。
 この『現代思想のコミュニケーション的転回』という本は、約三十年前に仕込まれたそういう種が、今になってやっと芽吹いたものであると感じている。言葉とは何であり何でないのか、もしくは「知」は何を目指しているのか、さらには、私たちが言葉をやりとりし、苦しみながらも「知」や「価値」を伝達するのは、どうしてなのか、そういう根源的かつ素朴な問題の多くが、そのときに私の内部に埋め込まれ、紆余曲折を経て、今回の形となった。そして今、私自身がそういう「種」となる講義をしたり、本を書けているのか、つまり「共通知」の構築者の末席に位置できているのかと、日々反省するばかりである。
 今、私は、西武線・山手線・常磐線特急「スーパーひたち」を乗り継いで、約三時間かけて水戸の茨城大学に教えに行っているのだが、その「意義」を知っている。私を呼んでくれている茨城大学の林延哉先生は学部大学院の同級生で、学部時代には野田先生の講義を一緒に受けていた。カントの研究者でもあった三島先生が野田先生をお呼びしていた理由も、今は、はるかによく理解できる。知をつなぐのは、かくも大変なこと。
 かなり後になって聞いた話だが、野田先生をお呼びしたときに三島先生は書籍をいくつか提示して「これらの書籍を参考にして講義をしてください」とお願いしたらしい。結構失礼なことだとは思うものの、大学教育にかける熱意を感じる話でもある。ただし、野田先生はそれらの本を一瞥して「わかりました」と言っただけで、その場で返したという。ちょっとカッコいい。
(たかだ・あきのり フェリス女学院大学教授)

『現代思想のコミュニケーション的転回』 詳細
高田明典 著

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