ロマンティック・グールド/青柳いづみこ

 メシアン弾きとして知られるフランスのピアニスト、ミシェル・ベロフにインタビューしたことがある。一九八〇年代前半、彼がちょっと(あとになってみれば「ちょっと」どころではなかったのだが)手を壊して休養しているころだ。
 自分はあまりに早く世に出すぎた、と彼は語っていた。まだ何もわからないうちにわからないものを弾いていた。本当はシューベルトが好きだったのに、もう弾かせてもらえない。
 同業者としては身につまされる。私もまた、一番好きな作曲家はベートーヴェンなのである。しかし、ドビュッシー弾きとして世に出ると、ベートーヴェンはなかなか弾きにくくなる。
 カナダの奇才ピアニスト、グレン・グールドも同じようなことを言っている。
「私が聴衆を相手に弾く曲と、自分のために弾く曲は、昔から完全に別なのです」と彼は語る。「十二歳ないし十三歳の我が栄光の日々には、オール・ショパン=リスト・リサイタルを開いたものです。(中略)十六歳頃から曲を選びはじめ、余分な曲を取り除くようになりました。私があまり好きでない曲、ではなく、私をあまり好いてくれない曲を、でして――」(『グレン・グールド発言集』みすず書房・宮澤淳一訳)
 私の手元には、グールドが十四、五歳のころに弾いたショパン《即興曲》第一番、第二番の私的録音がある。それを聴いたとき、グールドの発言の意味がよくわかった。
 自宅のピアノで弾かれたその演奏は、コルトーばりのルバートを多用し、あふれんばかりの歌心に満ちていた。同時に、彼の代名詞となったバッハ《ゴルトベルク変奏曲》の名演からすれば、ピアニスティックな意味ではあまりに拙いものだった。
 もし私がグールドの先生だったらこう判断しただろう。この年齢でこの曲をこの程度にしか弾けないのであれば、少なくともロマン派では世界一にはなれない。方向転換が必要だ、と。
 そこで、《ゴルトベルク》である。今でこそ見事に弾くピアニストはたくさんいるが、当時は、二段鍵盤のチェンバロ用に書かれたこの曲をピアノで弾くことなど(グールド以前に録音しているクラウディオ・アラウとロザリン・テューレック、同時期のイェルク・デムス以外には)あまり考えなかった。
 バッハのように左手が右手以上に動くことを求められる対位法的楽曲では、左利きのグールドは断然有利だった。加えて驚異的なフィンガー・テクニックを持つ彼は、勝負曲として《ゴルトベルク変奏曲》を選んだのだ。
 しかし、トスカニーニではなくフルトヴェングラーを愛し、十五歳のとき初めてワーグナー《トリスタンとイゾルデ》を聴いて滂沱の涙を流したグールドにとって、解釈の切り替えは容易ではなかった。一九五四年にCBCのラジオ放送用に録音した《ゴルトベルク》を聴くと、当時の彼が、バロック音楽です
らロマンティックなアプローチで弾いていたことがわかる。
 それから一年、伝説の五五年盤《ゴルトベルク》のレコーディングに際してグールドは、トスカニーニのように即物的に弾くことが流行していた五〇年代の趣味に合わせて、自分の演奏を刈り込み、浄化し、我々がよく知る形につくりあげた。
 作戦は見事に成功し、グールドは一躍国際舞台に躍り出た。しかし、いかにグールドでもライヴ録音までは刈り込めなかったようだ。つい先ごろ六枚組でリリースされた『グールド・イン・コンサート 1951~1960』は、そんなグールドの素顔をかいまみせてくれる実に興味深いアルバムである。なか
でも一九五九年ウィニペグで収録されたブラームス《ピアノ協奏曲第一番》のライヴは、すわ、バーンスタイン盤(特異な解釈でスキャンダルをまきおこした)の再現かと身構える聴き手の期待をあっさりと裏切るオーソドックスな名演だ。
 六四年にステージから引退したグールドは、数々の名録音(論議を呼んだものも含めて)を遺して一九八二年に亡くなった。それらの録音も、「ロマンティック・グールド」をベースに聴くと、また別の魅力が浮かび上がってくるにちがいない。
 (あおやぎ・いづみこ ピアニスト・文筆家)

『グレン・グールド ─未来のピアニスト』 詳細
青柳 いづみこ  著

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