西郷信綱さんの研究会について/龍澤武
『古事記注釈』(ちくま学芸文庫・全八冊)は、すぐれた古典学者西郷信綱さんが「注釈」という形式によって、人文学と批評の核となる、あるべき「読む行為」とはどのようなものかを提示した作品といえるだろう。西郷さんのその「精読」のありかたの一端を物語る、ある小さな研究会に私は参加したのだが、それはこんな風だった。
日吉のお宅での古典を読む研究会に加わるよう誘われたのは、一九七一年の秋。月一度のこの研究会は、亡くなられた二〇〇八年の一月まで、三十数年の長きにわたって続けられた。常連のメンバーは、中世日本文学の岩崎武夫さん、山本吉左右さん、日本思想史の大隅和雄さん、私の同僚の内山直三で、八〇年代の数年間西洋史の阿部謹也さんが参加していたこともある。
長く続いた研究会だが、そのやり方に特別な何かがあったわけではない。それは日曜午後の数時間、古典のテクストをともかく丁寧に読むというものだった。「平家」や「今昔」のように、同じ作品を何度かとりあげたこともある。参加者が交替でやるのだが、テクストをあるまとまりのところまで一行一行声を出して読む、ひとつの「言葉」にだれかが引っ掛かればそれを含む「文」、そして「文」と「それを含む全体」、そしてまた「言葉」へと、皆で往還しつつ進むというものだった。一回の研究会でわずか数ページという悠々たるペースの読書だったが、「読むは難く頁は暗し」なのである。あるとき突然暗かったそのページに焦点が定まり、難渋していた文脈全体の理解に光が差し込む瞬間がある。むろん多くは、西郷さんがその糸口を作るのだが、他の誰かがそれを見つけることもあった。そして私たちは、「読む」とは個人単独の行為ではなく、実はさまざまな他者の「読み」の交差点に立つことであると繰り返し実感する。その「他者」とはその場にいる私たちだけではない。先行するさまざまな「読み」がそこに加わってはじめて成り立つのだからだ。つまりこの研究会は、そもそも「古典を読む」とは、時空を横断して他者の経験と出会う共同の営みであることを得心させられる場だった。そこに現れる「経験」のみが、歴史に参入する唯一の道であるという確信が西郷さんにはあり、この会を長く持続させたそれが原動力だったと思う。
日本の古典だけを読んでいたのではない。参加しはじめの頃、「今昔」の説話を読んで「笑い」の問題に及び、バフチンの『ラブレー論』の英訳本を教えられ、西郷さんの視野の広さに驚かされたのだが、それはまだほんの出だしというに過ぎなかった。七〇年代の半ばから、研究会はⅤ・ターナーの「巡礼論」を皮切りに、人類学や文学や歴史にかんする欧米の理論書の原本や英訳書を日本の古典と併読するようになった。私はさまざまな本の文字通り拙訳を作り、古典と同じように声を出して読むという役割を負わされることになった。スピツァー、ロード、ギアーツの未訳の本から、イーザーらの受容理論、その頃から次々と英訳が出版されたロシアの記号論や歴史人類学者グレーヴィッチの著作等々。サイードの刊行されたばかりの“Beginnings”(1975)を教えられたのもこの会である。
西郷さんは欧米の最新の理論動向にも通じていた。とはいえ「博識」を以て自ら任じていたわけではない。当時、日本の人文書の一郭には、新知識をめぐる人類学者や英文学者の「もの知り競争」の喧噪があり、やがてニューアカ・バブルに続いてゆくのだが、そうした学者を評して「博識でいくのならば林(達夫)さんのように品が良くなくてはね」と笑われたこともある。西郷さんには、伊藤仁斎の「童子問」を引いて、博識ならぬ「万にして又万」なる「多学」と「一にして万にゆく」「博学」とを対比し、真に目指されなければならないのは「博学」という文章がある(「古典の影」一九六八年)。この「一」が、テクスト、テクストを読むという行為に他ならず、それを通して西郷さんの「博学」に私たちは教えられたのだ。
『古事記注釈』が完結するまでの約二十年の間、そしてその期間の前後も含めて営々と続けられた西郷さんの古典の「精読」はさまざまな結実をもたらした。刊行中の著作集(全九巻、平凡社)には『注釈』を除くそのほとんどが収録されるが、それらの作品は読者に、「読むこと」を通してはじめて立ち現れる歴史の経験の次元への参加を呼びかけているように、私は思う。
(りゅうさわ・たけし 編集者・元平凡社編集局長)
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