特集 『明治文學全集』復刊に寄せて 明治を楽しむ/出久根達郎

 明治の世は、遠いだろうか。
 明治の年号が終ったのは西暦で一九一二年、二〇一二年でちょうど百年になる。百年は、長い。一世紀前は、はるか昔である。
 けれども、ちょうど百年前に亡くなった人が、こんな歌を詠んでいる。
「やや長きキスを交して別れ來し/深夜の街の/遠き火事かな」
 ちっとも昔の歌という気がしない。
「猫の耳を引つぱりてみて、/にやとけば、/びつくりして喜ぶ子供の顏かな」
 現代の小学生が作った歌、と言われたら、そうだろう、とうなずいてしまう。どちらも、石川啄木の作品である。前者が歌集『一握の砂』に、後者が『悲しき玩具』に収められている。
 私たちは、明治という年号に捉われすぎるきらいが、ありはしないか。明治文学、というと、更に身構えてしまう。古い。難解。アナクロニズム。面白くない。真面目。堅すぎる。読みにくい。幼稚。単純。無思想。陰気。
 そんなことは、ない。食わず嫌いである。
 とっつきにくいせいもある。はなから、歯が立たぬ、とあきらめている。何しろ、当時の文章は、改行がほとんどない。弁当箱のご飯のように、びっしりと文字が詰まっている。改行だらけの現代文に慣れた者には、これだけでもう読む気が失せてしまう。
 目で読むのでなく、試しに、書き出しの一行を声に出して読めばいいのである。
「夕暮の忙しさは、早や家へ歸る身なるに襷?るのも打忘れて卒と、吾妻下駄の齒に小石の當りて騷がしく、?垂帶の上よりめて、小包持てるは髮結なるべし……」
 北田薄氷の「乳母」である。明治二十九年、二十一歳の作。この一作で彼女は文才を認められた。泉鏡花との恋で知られ、二十五歳で夭折した。
 音読したら、次に目で文字を楽しむ。脱る、匆卒、などルビの絶妙な振りを味わう。前垂帯、ってどんな帯だろう? ととまどうが、もう一度読んで、ああ、前垂で切るのだ、と気がつく。前垂、帯の上より締めて、である。このように気づいたことが、嬉しい。
 そう、私が言いたいのは、明治文学は内容よりも言葉遣いを楽しむ作品なのでないか。今では遣われなくなった語彙が、続々と登場する。意味はよくわからないが、文字づらをにらんでいると、何とかわかってくる。現代でも用いられている言葉が、違う形で遣われていたりする。そして何だか当時は各自が自由勝手に遣っていたのではないか、と思えてくる。
 正岡子規を世に出したジャーナリストの陸羯南の論文を読むと、認識が識認、供給が給供、撤廃が廃撤、明白が白明と逆に用いられている。間違いではないのだ。明治の世では、当り前に遣われていたのである。
『明治文學全集』の別巻は、『總索引』である。本巻九十九巻の重要な語句、事項、人物名を拾いだした、実に七三六ページの大冊である。この一巻だけでも、十分に楽しめる。
「ハンカチ」の表記ひとつとっても、作家それぞれに異なる。「ハンカチーフ」「ハンカチイフ」「ハンカチフ」「ハンケチ」「ハンケチー」「汗巾」「手巾」「絹巾」「?子」「手?」とこれほど違う。漱石は、「手帛」と書いている。
 ギョエテとはおれのことかとゲーテ言ひ、という有名な川柳がある。なるほど、あるある。「ギェーテ」「ギューテ」「ギョウテ」「ギョエテ」「ギョオテ」「ギョーテ」「グーテー」「ゲエテエ」「ゲーテー」「ゴエーテ」「ゴエテ」「?アタ」「瓜得」「我義的」……どう書いても通じたところが面白い。
 ギョエテ、どころではない。日本人に親しまれたシェイクピアは――六十人余の異名のシェイクスピアがいる。「セクスピア」さんもおります。ということは、この全集を用いて、「日本人のシェイクスピア像」という論文が書けるということです。単なる「明治文学」の全集ではない。「明治文化」「明治風俗」「明治語」「明治学芸」「明治生活」等々の宝庫である、ということです。
(でくね・たつろう 作家)

『明治文學全集』 詳細

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