グローバル時代の日本語文学/上野千鶴子

 本年度太宰治賞受賞の作品、岩城けいの『さようなら、オレンジ』は松浦寿輝はじめ、読み巧者の文芸評論家から絶賛を浴びている。
 そそられて、読んだ。
 読み始めてひきこまれた。読み終わって粛然とした。あまりにまっすぐな、生きるための作品。いまどき「書くことがある」人の作品が持つまぶしさがある……それがわたしの最初の感想だった。
 オーストラリア在住のアフリカ難民、サリマの物語。夫に逃げられ、ひとりで息子を育てるために、知らない言語を学び、差別に遇いながらスーパーの食肉加工という過酷な職場で生き抜こうとする生存の闘い。それに、英語を学ぼうとするサリマと同じ語学のクラスで出会った日本女性、サユリの物語がからむ。
 たしかに感動的だ。サリマの苦闘、サリマの真摯、サリマの勇気、サリマの矜恃――無知無学ながら周囲の尊敬をかちえずにはいないサリマという人物には、心をゆさぶられる。だが、この感動は作品から来るのだろうか、それともサリマの経験から来るのだろうか?そもそもわたしたちは見知らぬ外国での外国人サリマの経験を、なぜ日本語で読ませられなければならないのだろうか?
 あとになって「サリマの物語」はサユリの書いた作品だということがわかってくる。松浦によれば、太宰賞選考委員の三浦しをんは、「この技巧的なメタ構造の成否に疑念を呈しており、わたしも半ばそれに賛同する」という。だが、この「理に落ちた二重構造」を排すれば、この作品は松浦がいうとおり、「これだけ強い内的衝迫と正確な人間観察によって書かれた作品」、つまりサユリが出会ったサリマの物語に還元されてしまい、そのことは、わたしが怪しんだ感動の由来――作品から来るのか、サリマの経験から来るのか?――を、後者に帰してしまう。そうなればこれは「わたしが・出会った・難民」についてのレポートの一種となる。そしていまどき、生きるための熾烈な闘いの現場を描くには、戦争とか難民とかの特異な背景でもなければお目にかかれないことになってしまう……夫の留学についてふらふらと海外に移住し、先の見通しもないままに大学院に籍を置き、子どもを産んで死なせ、ふたたび妊娠する高学歴の日本女性にとっては、外国で初めて出会う過酷な現実を生きるだれかの物語を書くという「幸運」にでも出遭わなければ、感動的な作品を書くことはできないのだろうか?
 だが、評者の多くが忘れていることがある。これは何よりも誰よりも、サリマの物語ではなく、サユリの物語であるということを。評の中で「彼女」と称されているのがほとんどの場合サユリでなくサリマであること、「ナキチ」という本名を奪ったことを難じるところに、その「誤読」はあらわれている。サユリによる「サリマの物語」の領有を難じているのだろう。
 だが、サリマの物語は日本語で書かれている。それをサユリは、この物語が「日本語にしかならない」と弁解する。「心の奥底にある感情の沼」を正直に書くには、母語で書くしかない、と。だからサリマは自分について書かれた物語を読めない。
 誰も指摘しないことだが、この「メタ構造」は、サユリに英語での表現を教えたジョーンズ先生という英語教師に宛てた手紙という形式をとっている。この「メタテキスト」もまた、日本語で書かれている。素朴な疑問だが、これは原文が英語の手紙の翻訳という設定になっているのだろうか? そうではないだろう。あらかじめ日本語で書かれたとおぼしい「手紙」を、おそらくバイリンガルとは思えないジョーンズ先生も読むことはできない。いや、この小説の結構のなかでは「ジョーンズ先生」は架空の存在にすぎない。「ジョーンズ先生」とは、サユリを異国へと誘ったすべての「よきもの」の代名詞だが、この作品は「日本語でしか書かれない」ことで、「ジョーンズ先生」への決定的な裏切りになっているのだ。
 サユリが「祖国からたったひとつだけ持ち出すことを許されたもの、私の生きる糧を絞り出すことを許されたもの」、それが主人公にとっての母語、日本語である。母語とはどこに行ってもひとを逃さない「牢獄」であり、ひとはそれを背負ったまま移動する。そしてあまりに自分と密着しているために、それが自分の輪郭をつくりだす母語との関わりなしには、ひとは生きていくことはできないのだ。半世紀以上を英語圏で過ごしたある日本男性(日本文学研究者だった)が、こう言ったことばを、わたしは忘れることができない――「英語はね、他人の言語だから、責任をとらなくていいんですよ」。
 ルーマニア生まれの亡命作家シオランは、母語ではない言語で自己表現しなければならない自分の運命を終生呪いつづけた。二〇年の長きにわたって異国に住みついた岩城はそうしない。逆に、周囲の誰も理解しない言語で、異国での経験を表現する。グローバリゼーションとはそういう経験だ。同じような状況にいる日本語の表現者は他にもいる。アメリカ在住の詩人の伊藤比呂美は、外国人の夫が決して理解しない言語で語る。ドイツ在住の多和田葉子も、その日本語作品の値打ちをドイツの隣人たちは理解しないだろう。彼女たちは誰に宛てて書くのか? わたしたち日本語読者に対して。あて先はわたしだ。それをまちがってはならない。
 そこから生み出された作品を、岩城は「悪魔の大好物」と呼ぶ。岩城はニホンゴを裏切りながら、ニホンゴに奉仕する魔女、その魔女が血を流しながら編んだ作品を、わたしたちは美食する。たとえ彼女の作品を英語に翻訳したとしても、それは別のものになってしまうだろう。
「どうしても書かれなければならない作品」とは、サリマの物語ではなく、サユリの物語だ。「サリマ」はそうやって「異国で生きることを決めた者」、ことに子どもという守るべきものを持ってしまった母、の代名詞として与えられている。だが、そのなかでも、サユリにあってナキチにないのは、母語で表現しつづけるという「煉獄」だろう。わたしたち日本語読者は、その「煉獄」で生きつづける者を見届ける証人になる。
 本書でもっとも感動的なのは、サユリが「この煉獄を生きつづける」と決意する、その部分にほかならない。

『さようなら、オレンジ』詳細
岩城けい著

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