シーツの中に潜む一本の針/瀬川深

 小説にとっては不運な時代だ。なにしろわれらが生きている世の中は人類史上例を見ないほど大量のものがたりに満ちているものだから、虚実を問わず、無数のできごとがあらゆるメディアを通じて目と耳に飛びこんでくる。これほど人間が自分の生活となんら関わりのないゴシップに精通しているという時代も、おそらく前例がないだろう。おかげでわれわれはすっかり不感症になってしまって、大抵のできごとにはいっぱしの批評家を気取り、最後には愚痴っぽく退屈を嘆くばかりだ。けれどそんな世の中であるからこそ、ものごとを適切に選び取って正確に描出するような小説は、他で代替することのできない価値を孕んでいるのだとぼくは確信している。
 海外旅行に旅立つ娘一家を見送りながら老媼が語る娘の来歴。老父を一人で介護している独身の中年女性の静かな孤独。美術予備校の講師が画家になることを諦めた理由。本書に収められた作品はいずれも、いかにもこの地上のどこかにありそうな人とそのできごとを選び取っている。特別な事件もめったに起こりはしない。にもかかわらず、ここには、良質な驚きが備わっている。読者が手を止めずにはいられない一瞬である。それは、シーツの中に潜んでいた一本の針の鋭さを正確に伝えられたときの驚きにたとえることができるかもしれない。
 たとえば本書のなかの一編、「ドシラソファミレド」。長い時間を軽々とまたぐ作品が多い中でも、本編ではとりわけ古い時代の姿が美しい。おひつという今日では半ば廃語となってしまった名詞一つを皮切りにして、主人公の女性が幼いころの両親の姿が描かれる。穏当なノスタルジアと思いきや、御しがたい父の我執とそれを受忍した母の姿が、ちらりと見え隠れもする。そんな母もすでに身まかり、父は衰え、主人公も歳を重ねれば、時の流れは生家にあったモノたちにも及ぶ。鏡台や衣装袋といった名詞も、もはや廃語となりつつあるのかも知れない。古いモノは古い言葉とともに忘れられてゆく。衰えが度を過ぎたところで、廃棄される。
 その姿は、主人公の姿とも重なる。独身のまま中年にさしかかり、彼女はしだいに社内での居場所がなくなっているのだ。篤実な働きぶりだけでは評価されないし通用もしない、世の中はいつしかそんな具合になってしまっていたからだ。さりとて、新しきものが豊かな内実を持っているわけでもない。英語が得意なだけの若い社員が、無能さを自覚することもないまま、古い時代の作法を一掃してゆくのである。爆弾ひとつ破裂するでもないのに、このものがたりの描く喪失感は、ただごとではない。それは、単に悲しみなどと言って片付けるわけにはいかない、もっと強烈な感情である。
 とはいえ、物静かな人情話ばかりなのかといえば、さにあらず。穏やかな語り口に心を奪われていると、思いも寄らぬ日常の怪異へと招き入れられ、ガバリと足下をさらわれる瞬間も決して少なくない。慄然とするような、あるいは長大な時間の流れに思いを馳せずにはいられないような結末が待ち構えていることだってある。もっとも、びっくり箱を開け急ぐようなことをするのはもったいない。どの作品も、丹念に言葉を追い、ものがたりを辿る楽しみに満ちているのだから。
 全作品をあらためて通読して、ぼくは、作者のご自宅にお招きを受けて、手料理をふるまわれたかのような印象を受けた。ありあわせのものですよなどという謙遜を本気にしてはいけない。陶工の一品ものから百円ショップの食器までが臆せず並べられ、お味噌からが手ずから仕込まれ、長い時間をかけてスープを取った料理が盛りつけられた、そんな食卓であることは間違いない。滋味と栄養に満ちているのはもちろんのこと、ときには辛みも苦みもふんだんな、極上の小説である。
(せがわ・しん 小説家)

『ささみみささめ』詳細
長野まゆみ著

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