[色彩のゲーテ]1/下西風澄

「色彩とは光の行為である」
 ―Die Farben sind Taten des Lichts.

 ゲーテがこう書いた時、それは「詩」ではなく「科学」としての言葉だった。
 一般にはあまり知られていない事実だが、世紀を代表するこの詩人は「科学者」であった。ゲーテの生きた一八世紀には「自然科学者」という名詞は一般化していなかったので、彼自身の好んだ「自然愛好者」という呼び方がよいかもしれない。
 彼は名だたる詩作と文学に生きる裏側で、絶えず科学者であろうとした。ライプツィヒの法科大学生時代から物理学を学び、ワイマール時代には医学や鉱物学などの自然科学を研究し、解剖学の講義まで担当した。
 なかでもゲーテが執心したのが『色彩論』(一八一〇)である。ゲーテは同書で、物理的な光の波長のスペクトル分析によって色彩を定義しようとしたニュートンを徹底的に批判している。ニュートンが暗く整備された実験室で光の波長を分析したのに対し、ゲーテは光に照らされた実世界の多様な色彩のデータを集めた。
「夕映えの中で黒い活字が赤く見える」や「日中、雪の色調が黄色味がかっていた」など、物理的な光の波長にかかわらず、とかく人間が経験してしまう色彩現象を博物学的に何十何百と集めて記録した。いわば、ニュートンが光学としての色彩を研究していたのに対し、彼は身体の知覚体験(認知科学)としての色彩を研究した。ゲーテにとって色彩とは、それを見る人間の経験と共に生成されるものだった。
 冒頭の言葉は、『色彩論』からの引用である。翻訳者を悩ませたに違いない。木村直司氏はこれを「色彩というものは光のはたらき」であると訳し、その後に続く「Taten und Leiden」は、より解説的に「その能動的な作用と受動的な作用によって生じたものである」と訳出している。
 ドイツ語のTatenは、「行為(Tat)」、Leidenは「悲しみ(Leid)」である。石原あえか氏は、これを直訳に近いかたちで「(色彩とは)行為であるとともに、また受苦である(Taten und Leiden)」と訳出した。光は能動的に世界を照らし、同時に世界からの制約を受けて、色彩を帯びる。色彩はこの明るさと闇の間の無限のグラデーションに生じるのだ。ゲーテにとって色彩は、光の波長でも、物質の反射率でも、また網膜の情報処理でもない。光と物質、そして認知主体である人間が複雑に重なり合った風景の中から生まれる、あるいは「生まれ続ける」、移りゆく現象こそが色彩であった。
 ゲーテは、光の美しさを描いた詩人である。しかし、私たちの生きる世界を豊かで多様に彩る色彩は、光の陰りであり、受苦である。光と闇の間、肯定と否定の終わらない相克の運動が色彩の本質であり、世界に色彩を産出する契機こそ「行為」なのである。
 またゲーテは、単に色彩の物理的な性質よりも生理学的な性質に着目したというだけではない。ゲーテの色彩論は現在の認知科学が取り組んでいる重要な課題を予見していた。次回、「身体化された認知」と呼ばれる近年の認知科学の動向とゲーテの交点を見る。
(しもにし・かぜと 東京大学博士課程/科学哲学)

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