漢詩のすすめ/林田愼之助

 拙宅には、欅の一枚板の扁額がかかっている。平野五岳の篆刻で「思無邪」とある。雄渾な書体が気に入っている。
『論語』をみると、『詩経』について論評した孔子の言葉が残っている。「詩三百、一言もってこれを蔽えば、曰く思いに邪無し」というのが、それである。「思無邪」について、詩人の三好豊一郎は「言葉の語の初発の根源が、修辞やイデオロギーなどによってくもらされていない」という意味に解していた。
 筑摩選書の『幕末維新の漢詩――志士たちの人生を読む』を書き終えて気付いたことがある。幕末維新の志士たちは、国事に奔走する間に、怒りや悲しみ、辛さを、そして喜びや志を漢詩に表現した。儒者文人のように文の芸として漢詩を作ったのではなく、素養として身につけてきた漢詩に、その時折の真情を率直に吐露してきた。それが「思無邪」の詩ごころとつながっていると思ったのである。
 吉田松陰は下田渡海に失敗して萩に檻送されるが、佐久間象山も渡海をすすめた罪で信州松代に蟄居させられていた。檻送の途中、天竜川にさしかかった時に、松陰が詠んだ漢詩がある。
竜水信ヨリ来ル/無情却テ情アリ/故人ノ事問ワント欲スレバ/タダ激怒ノ声ヲナスノミ
 天竜川を遡れば松代がある。そこで象山先生はどうされておられるのか、消息を知りたいが、今のこの身ではどうしようもない。ただ激しい怒りが突き上げてくるばかりである。河上徹太郎の『吉田松陰』は、この詩を取り上げ、情に熱く深い松陰の人柄にふれて長州人の典型だと語り、その例証とした。
 妻木忠太の『前原一誠伝』を読むと、高杉晋作が維新回天の事業を成し遂げようとして、雪中奇兵隊数十人を率い、長府功山寺から進発した時の様子を描いているが、そこで、当時の実景を詠じた前原一誠の漢詩一首を紹介している。
軍謀終夜 青燈ヲ剪リ/暁ニ閃ク旌旗 益々増ス/凜冽タル寒風 面マサニ裂ケントス/馬蹄踏破ス 満街ノ冰
 妻木忠太は前原一誠のこの詩をかりて、功山寺進発前後の緊迫した空気を伝えることに見事成功している。
 西郷隆盛が生涯最期の時を過ごした城山の岩崎谷洞窟の中でどんな心境でどんな風に暮らしていたのか知りたいところだが、幸いなことに、洞窟内で彼が詠じた漢詩が今に伝わっている。
百戦功ナシ半歳ノ間/首邱幸イニ家山ニ返ルヲ得タリ/笑ウワレ死ニ向トシテ仙客ノ如ク/尽日洞中 棋響閑カナルヲ
 これからすれば、死を目前にして、まるでいつまでも生きながらえる仙人のように、日がな一日悠然と碁を打って過ごしていた隆盛の姿が浮かんでくる。
 萩に檻送された松陰は、萩郊外二里ばかりのところにある明木橋を渡ったとき「今日檻輿にて返る。これぞ吾が昼錦の行なり」と吟じて、まるで故郷に錦を着て帰ってきたような気持ちだと語っている。そこには志高い松陰がいた。そのまま野山獄に入るが、獄中で松陰がみた夢もやはり非凡なものであった。
偉績イマダ忘ルル能ワズ/夢想ウタタ凡ナラズ/昨夜 太平ノ海/快風 布帆ヲ懸グ
 松陰の夢は、快風を受けて太平洋上を布帆船で気持ちよく渡っている情景であった。
 松陰門下でとりわけ詩才に優れていた高杉晋作は、二十七歳で病没。その晩年に白梅をめでて詠じた七絶一首を遺した。
正シク是レ白梅ノ開キテ遍シ時/氷肌玉骨 清姿ヲ競ウ/榻ヲ移シ閑吟シテ相対坐スレバ/痴情ハ却テ老残ノ枝ニアリ
 艶麗な風韻をとどめながら、老残の一枝に咲く白梅に痴情をみたのは、おそらく晋作の末期の眼であろう。
 人物の伝記を描くさいに、かく漢詩を読み解くことで、その考察がさらなる深みと生彩を帯びるようになる例は少なくない。これが、史伝の書にたいするわたしの漢詩のすすめである。
(はやしだ・しんのすけ 中国文学者)

筑摩選書
幕末維新の漢詩――志士たちの人生を読む
林田愼之助著1700円+税




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