華麗な短歌のアルバム―『フランス文学者の誕生』余滴/鈴木道彦

 日本で本格的にフランス文学研究が始まったのは、大正期からである。『フランス文学者の誕生―マラルメへの旅』は、その草創期の人物である私の父鈴木信太郎の半生を主題に、彼がフランス文学者として形成された過程を描いたもので、その一部は二〇一一年から二年間にわたって本誌に連載された。しかし内容は大幅に書き改められ、分量も二倍近くに増えたので、連載とはまったく別ものになったと思う。
 信太郎がどんな環境で育ち、どんな影響を受けて成人したかを探るのは、私にとって自分の祖先のことを調べる作業だったし、また私自身も父と同じフランス文学を仕事に選んだ人間だから、本書は二重の意味で自分のルーツを探ることに通じていた。私はいわゆる「自伝」という形式で真実を書けるとは思わない。書き手と対象が余りに近すぎるからだ。しかし父や先祖のこととなると、自分のごく身近にいた他人なので、これを調べるのはなかなか楽しい仕事だった。
 父は東京の神田佐久間町の生まれで、米問屋の御曹司だった。その米問屋を開いたのは父の祖父にあたる人だが、彼はもともと埼玉の地主だった。戦前の地主は小作人から毎年収穫の五、六割のものを現物で納めさせていたのだから、地主が米問屋を開こうと思うのは理にかなった話である。だがそこから、当時存在すらしていなかった「フランス文学者」という妙な新種が誕生するのは、必ずしも自然なことではない。そのためには、戦前の家督相続の制度と、鈴木家の総領息子という条件に加えて、私の父の過ごした幼少期の経験が必要だった。
 幼いときから父は鈴木家の相続人として、将来は埼玉の土地を継ぐものと決められていた。これは生涯にわたって、生活のために働かなくてもよいという保証だった。加藤周一の『羊の歌』にも、同じような境遇におかれて、出世も望まず、卑屈にもならずに、一生怠け通した伯父のことが出てくるが、戦前の大地主の相続人には、このような生き方も可能だったのだ。
 しかし父の育った環境では、経営の順調な商人の家庭だけに、孜々として働く空気があり、躾もかなり厳しかったようだ。両親ははなはだ教育熱心で、初めから息子を法科大学(現在の法学部)に入れることを目指しており、そのために初等教育から特別な学校を選んでいる。それが結果的にはフランス文学への道を開くことになるのだが、その経緯については本書のなかで詳しく書いたので、ここではふれない。
 ところで明治から大正にかけての成功した商家の主人は、一種のプライドとして、メセナ役を演じることに熱心だったらしい。信太郎の両親は、南宗画家の高森砕巌という人物と親しくしており、彼の描いた多くの軸や屏風を購入したり、砕巌が苦しかった時代には米を届けたりして、生活を助けていた。幼いときからこうした文人墨客の生き方を見ていたことも、信太郎がフランス文学に惹かれたことと無縁ではなかっただろう。
 信太郎が結婚した相手は、深川平野町の「仲昇」と呼ばれる材木問屋の長女だった。この「仲昇」の最盛期を築いたのは、私の母方の祖父にあたる仲本昇太郎だが、彼も商家の主人としてメセナ役にはきわめて熱心で、与謝野鉄幹・晶子の文学運動にさまざまな援助を惜しまなかった。だから私の両親の結婚のときに、与謝野夫妻は新婦側友人として出席するとともに、「仲本昇太郎氏の令嬢花子の君にこの一巻を捧ぐ」として、奉加帳のようなアルバムに三十四首の短歌を書いて贈っている。おそらく全集にも収録されていないものが含まれているだろうから、本書ではその三十四首をすべて紹介したが、このような慶事にあたって歌を贈るのは、与謝野夫妻がときおり行っていたことだった。そこにはなかなかの秀作も含まれていて、一冊の奉加帳がそのまま、本物よりもはるかに華やかな新婚カップルの肖像を描く合作歌集になっている。
(すずき・みちひこ フランス文学)

フランス文学者の誕生 マラルメへの旅
鈴木道彦著 3300円+税

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