〈かもしれない〉の渦に巻き込まれて/小野正嗣

 世界の至るところで、さまざまな言語で素晴らしい文学作品が日々生まれている。しかしそれらの言語のすべては読めないから翻訳に頼らざるをえない。日本が翻訳大国とはいえ、読みたい小説がすべて翻訳されているわけではないので、僕の場合だと仏訳とか英訳に頼る。辞書を引き引き苦労して読む。でもつねに不安がつきまとう。オリジナルの言語に通じた人からその仏訳や英訳があまり正確ではないと教えてもらうことがあるからだ。確かに読みやすいのだが、「不実な美女」という言葉が示すように、文体も表現も美しく自然に感じられる訳文を実現すべく、読者の言語・文化にとって理解しがたい原文の箇所や表現がカットされたり改変されているらしいのだ。では僕がいま読んでいるこの翻訳からは、オリジナルのテクストにあった何か本質的なものが失われているのか。「美女」と思いきや、実は「醜女」、あるいは本当は「男」だったとしたら?

 
 しかし、と思う。そもそも日本の作家によって日本語で書かれた小説を読むとき、僕はそれを十全に理解していると言い切れるだろうか。書き手は構成や文体や表現などさまざまなレベルで工夫を凝らしているはずだが、そのすべてを把握できていると言えるか。小説を読んで他人と感想を語りあうとき、反応のポイントが全然違い、本当に同じ本を読んだのかどうかと不思議に思うことはないか。それでも何の差し障りもない。言葉はつねに曖昧さ、いい加減さをまといながら流通している。
 
 そうした言葉の懐の深さ――こちらの意図がちゃんと伝わっているかどうか定かではないのだが、結果的にはまあ何とかなっている――に僕たちが出会うのは、よく知らない外国語が話されている土地に旅行したときである。そして「美しい本は一種の外国語で書かれている」というプルーストの言葉をそれこそ都合よく解釈すれば、文学の言葉ほど外国を好むものはないのである。どことも知れない異国を舞台に、話し言葉の文体で、しかも文の読点(、)が入るべきところに句点(。)が入り、途切れ途切れの印象を与える独特の日本語で書かれた『コンとアンジ』は、まさに「一種の外国語で、一種の外国において/について書かれている」小説なのである。
 
 主人公の若い日本人女性、涼(すず)は、消息不明の兄を探して東南アジアとおぼしき土地を訪れている。宿屋で盗難にあって身ぐるみはがれた彼女は、身の安全のため正体を隠して男装し、コンと呼ばれながら現地の小さな貿易会社で働き始める。同じ職場のミステリアスな若者アンジに心惹かれるが、アンジは夜になると女装して酒場で働き、どうも犯罪に関わっているらしく何者かに追われている。
 
 兄が失踪した理由も、アンジが手に包帯を巻いている理由も、女装する理由も、追われる身になった理由も最後まで不明だし、コンがアンジと恋に落ちる心の動きもピンとこない。人物造形が大雑把で、主人公以外の人物が明確な像を結ばない。何が起こっているのか、どうしてそうなるのか判然としない強引なストーリー展開にしばしば呆気にとられる。
 
 だが、これこそ複数の言語が飛び交う異国の地においてコン自身が体験していることであり、旅先において理解できない言葉の渦のなかに置かれたときの僕たちの知覚そのものではないか。コンを何かと助けてくれるジェシカがアンジについて言う。「実際は、私が伝えたいこと、あなたは少しもわかってないかもしれないじゃないの。あなたがいいたいことも、私は少しも理解してないかもしれない。全部、〈かもしれない〉の中で、あなたはその男の子をどうして信用することができるの?」
 
 理解できなくても信用できなくても何とかなる。小難しいことは考えず、僕たち読者はコンのように「全部、〈かもしれない〉の中」に飛び込み、ときにとまどい、ときに憤りつつも、この不確かさを最終的に楽しめばよいのである。

(おの・まさつぐ 作家・立教大学准教授)


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